パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
ヒルマ・アフ・クリントって変な女の人だったんだと思う。結婚とか家族とか関係なくて、ひたすら絵を描くことに没頭して、他のことはどうでもいい。残された抽象画は、変なユーモアがあって面白い。女性だからその頃の美術史には残らなかったとか知らなかったことを知る。想像するしかないが、変な女の人で、おもろい人だったのではないか。写真の彼女を見てそう思う。家族とか世間から変人と言われ続け、それでもそうするしかない芸術家の寂しさみたいなものに触れた気がする。
いきなり裸の女の人が出てきて、嬉しくなった。主人公の女の子のキャラがいい。すぐセックスしちゃうけど、ナイーブでドライで、そこらにいそうな感じ。もう一人の堅そうな女の人も、どこか病んでいて、過剰に反応しちゃうとことか可愛い。嬉しすぎてガクンって気絶しちゃうとこ、好き。女の人二人に振り回される男の人もいい。いい人なんだけど、言っちゃいけないこと言って怒られたり。三人の関係が面白い。出会って、すれ違って、別れて。巧みな語り口に唸る。
リンダ・ロンシュタットという人が、どういうふうに歌手になって、歌い続けてきたか。その時代の音楽状況も丁寧に描写されていて、勉強になる。ただインタビューされる人たちが、ことごとく褒め一色なのはどうかと思った。彼女の歌はすごくいいし、彼女の努力もよくわかるのだが、もっとダメなとこやヤバいとこも見たかった。言葉の端々からそれが見えるだけに残念だ。後半、パーキンソン病の彼女がおぼつかない声で歌うセッションが良かった。ダメねと笑う彼女がキュート。
冒頭からびっくりする。監督の自己検閲版とはいえ、ふざけすぎやろ。実験精神あり。野外ロケでみんなマスクしていて、コロナ禍の話だとわかる。街の看板とかやたら撮っていて、今なんだなあと実感する。主人公の女の人が、みんなに責められる話し合いのシーンがじりじりして仕方なかった。みんなホント意地悪で嫌な気分になる。彼女が応戦するとこでホッとした。人を食ったようなふてぶてしい演出は、不快なんだけど笑っちゃうとこもあって、やっぱ真面目より不真面目と思う。
映画を見るまでヒルマ・アフ・クリントの世界を知らなかった。数多くの彼女の作品が映画の中にも登場し、見れば見るほど魅了されていく。色使い、繊細で大胆な一本一本の線が織りなすカーヴの美しさ。いまはぜひ、目の前で彼女の画を浴びるように見てみたいという欲求が止まらない。ヒルマの存在はこれまでの美術史の根底を揺るがすものだ。この映画はこれまでの歴史を覆そうとする挑戦的な試みをしている。ヒルマだけでなくハリナ・ディルシュカ監督のことも追ってみたい。
共同脚本が「燃ゆる女の肖像」(19)のセリーヌ・シアマということで大期待していたのだが、これは……。うまく生きられない男女の小さな物語が私には息苦しい。3つの短篇をくっつけてひとつにしているから、全体の規模がこぢんまりとさらに閉ざした世界観になってしまうのだろうか。こんなにラブシーンいる?というのも疑問。それがつながりの空虚さを表すために必要だとしても、他の撮り方はないのだろうか。最後の「ジュテーム」は私には残念ながら響かなかった。
ティーンネイジャーのリンダが歌の世界を夢見てやがてスターになる。子供の時から家で流れていたりして、無意識に聞いていたせいなのか、歌声を聴くだけですぐ潤んでしまう。とはいえ彼女のバックグラウンドについては何も知らなかったのだ。兄姉たちとバンドを組んでいたことにも驚いたし、それにオペラにも出演していたなんて! リンダのパワフルさと愛らしさなどの魅力はもちろんのこと、愛情に溢れている映画だった。永遠に愛されて欲しい歌手の一人。夢がある世界はいいなぁ。
第1部の風船のようなカメラの動きに誘われて、どこに連れていかれるのか戸惑いながらも、興味をそそられる。主人公エミが街をひたすら歩いている姿は、そのうち画面を超えてこちらに出てくるのではという奇妙な錯覚に陥る。第2部では言葉の羅列が繰り広げられ、言葉と言葉をつなぎ頭の中で編集する作業を観客に委ねてくる。第3部でエミは好奇の視線、暴言の渦中にいて身動きができない。観客の視線や感覚を常に刺激し挑んできている。この映画の根底にあるのは怒りなのだろう。
ヒルマ・アフ・クリフトは、カンディンスキーに先駆けて抽象画の可能性を開いた。美術史家や親族らの発言に導かれるように彼女の絵画を見ていくと、既存の美術史が男性優位の虚構でしかないことにも気付かされる。さて、本作はあたかも抽象画を模すかのように、風景や植物やカタツムリなどを映したショットを織り交ぜていくが、その際の特徴は明確にフォーカス送りである。要は、ここでの提案は視点を変えることではないのだ。視点はそのままに、焦点を合わせる箇所を変えること。
複数の短篇のプロットを織り交ぜて一本の長篇に纏め上げる手腕といい、気の利いた過不足ない台詞の妙といい、本作はまずもって脚本と台詞の映画である。だから、街の名前がタイトルでも街の様子が見えず、その喧噪が聞こえなくても、性が主題のわりには身体性が希薄だとしても、むしろ当然の帰結なのだろう。台詞も会話劇に至らないよう抑制されたもので、言葉の力に賭けてはいない。色や匂いや肌触りが欠如した、あたかも除菌されたかのような世界を表す、モノクロの画面。
ベタなものの圧倒的な勝利。米国エンターテインメントの底力はたぶんこんなところにある。半生を語るリンダ・ロンシュタット本人に加え、彼女をよく知る関係者たちのインタビューが案内役だ。なぜ本人の姿を映さず、ひたすら声だけを聞かせるのだろうと疑問に思う人もいるだろうが、多くの人はこれはきっと最後に登場させるための伏線作りだと途中で気付くにちがいない。しかし、それでも、現在のリンダが画面にふいに現れ、現在の歌声を披露するくだりに心を動かされてしまうのだ。
コロナ禍に生まれた造語の一つ「ソーシャル・ディスタンス」、示唆に富む言葉だ。コロナ禍が多くの人にとって社会を再考する契機になったのは、社会との間に「距離」が生まれたからだ。社会を、革命を、戦争を、歴史を、モラルを問い直すべく、ラドゥ・ジューデはそんな距離を生み出す力をポルノに求めた。オーラルセックスを隠す〈自己検閲〉はあたかも現在の日常に必須となったマスクか。要するに、これはブレヒトである。第2部はさながら「戦争案内」のパロディの赴きだろう。