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KKKって何なの、とか聞く人はあるまいと思うもののそこからしか語りようもなく。実在する白人至上主義団体の名で、ただし黒人の肉を食べる趣味があるというのは初耳。実話にインスパイアされた物語だとしても、話の盛り方に芸が見られない。機材の進歩を反映して画面はきりっとピントが合っているのだが、こういうのはむしろ前時代的な撮影機材で泥臭く撮った方が面白かっただろう。納屋と空き地のロケーションも上手いのだが上手い以上ではない。もっと冗談が欲しい気がする。
話が二重三重になっていて、感想以前にその構造を納得しないといけないというのは正直どうなのか。私がここで説明、という事ではなく観客が各々思考しながら鑑賞しなさい、という映画。映画内映画でメモされた(つまりフィクションとしての)住所が、映画の前提となる物語事実にふっと現れたり、想像された段階の映画から既に撮影後の映画に唐突に切り替わったり。ややこしいけど楽しめる。ただし驚きがほとんどない。驚かせるつもりがないのだ。実在する観光名所の宣伝映画である。
主演女優のミュージックビデオとして楽しむには極上、さすがスーパースター、絶対のお薦め品。しかし富裕所得者層の「全世界から愛される歌姫」は低所得インテリの「一介の数学教師」に何をやっても許される、という物語の甘えには疑問符が付く。望まない結婚とは一種の暴力ではないか。世間がこの不条理を笑って許す構図も恐ろしい。愛は暴力とは違う。微妙な差だが、才能を欠いた脚本家監督がスクリューボール喜劇まがいの企画をやるとこうなるというサンプルになってしまった。
ボテロは豊満なモナリザの絵で有名な画家。今夏、日本でも展覧会が開かれる。パロディというよりも割と本気でそういう画風を確立したようだ。それなりの哲学に則って描いているというのは分かったものの、自分の絵を自分と家族(と画商)が、要するに関係者が褒めてどうするの。亡くなった途端に市場価格が下落する典型的なパターンである。有名になる前の絵の方が繊細なタッチで優れているし、才能を感じさせる。この映画の記録的意義はそっちかも。ボテロって名前には愛嬌あり。
「過激すぎて全米で上映中止」の触れ込みほど実際に過激かと言われると微妙な気もするが、スプラッター描写におけるリアリティと作り物感のバランスも良く、最後まで飽きずに面白く観られる。白人と黒人の人種問題を扱ったジャンル映画でいうと、去年劇場公開された「アンテベラム」と同様に白人が悪人化され、黒人が勧善懲悪のもと復讐するシンプルな構造のため、ストーリーはとりたててないに等しいが、そもそもこの手のB級映画にあってこれが正しい在り方だとも思わされる。
ミア・ハンセン=ラヴと実際にパートナーであったオリヴィエ・アサイヤスのカップルを模した男女の機微が繊細なニュアンスと島の風景によって揺れ動いていくのは、いかにもハンセン=ラヴの映画らしい。映画内映画が同時に綴られていき、やがてゆるやかに虚実が溶け合う様に身を預けられれば居心地がいいかもしれないが、ニュアンスに頼りすぎている節もあり、映画作家の女とスクリーンに映し出された女の視線が唐突に一致するショット以外に鮮烈な印象を覚えるショットがなかった。
ハリウッドの王道ロマコメは2020年代に入っても不滅なのかと思いながら観たが、不満はありつつも愛すべき一本。ジェニファー・ロペスのパフォーマンスを贅沢に見せるサービス精神も旺盛で、タイトル曲が保守的でありながら、彼女にしっかり「女は姓を守り、男に努力させる」と言わせる。ファンの期待に応えられないと部屋でうずくまる姿は「レディー・ガガ:Five Foot Two」でガガが見せた姿なども彷彿とさせ、ロペス自身のドキュメンタリー映画を観ているようでもあった。
フェルナンド・ボテロについて概観を見渡せる正攻法なドキュメンタリー映画。必ずしも称賛ばかりではなかったとされる彼の作風に対して、映画には批判者が一名投入されているが、ボテロ自身の血縁者が製作に携わっていることもあり、基本的にはボテロを讃える内容になっているため、一名のみの批判者の存在が中立性を担保するものではなく、かえって悪目立ちさせてしまっているようにも思われる。「なぜふくよかさにこだわっていたか」という問いに肉薄していく過程は興味深かった。
演技も演出も台本も、映画を構成しているほとんどの要素が素人レベルで、かといってそれを戦略的に用いるわけでもなく、予算がないのに無理してハリウッド映画っぽいことをやってしまった系の映画に漏れ出るさもしさが充満しているものの、ポップコーンを食べながら深夜に見るエクスプロイテーション映画としては嫌味がないレベルの世界感と上映時間であった。しかしアメリカの景色をアメ車が走っているだけで自動的にアメリカ映画になってしまうのだなあ。
今作でもミア・ハンセン=ラヴは、「A地点からB地点に誰かが移動し、そこで誰かと出会い、別れる。その後誰かはB地点からC地点に移動し、また誰かと出会い、別れる」という単純な運動の繰り返しをもって映画を構成している。そんな反復に毎度わたしが惹きつけられるのは、これこそが映画であり、世界であるのだという監督の確信が伝わってくるからであろう。単純だったはずの運動は国境も言語も虚実も超越し、いつのまにか世界のすみずみまで根を伸ばし、響き渡る。
J.LOによるオートチューンが全開にかかった歌い出しには21世紀を感じさせる高揚があり、マルーマ演ずるドレイクなのかJ・バルヴィンもどきの色男には笑わせてもらったが、肝心の本篇はいわゆるシンデレラものをなぞるだけで強引な展開も多く、制作者が世界を肯定することに躍起になりすぎている気がする。ただし、それを許容レベルに引き戻すオーウェン・ウィルソンの圧倒的ないい人感と声色、そして時おり画面に映る名もなき在野の人々の圧倒的な美しさには感動。
一体何度生き直しているのだろうと思うほど波瀾万丈の人生を送る存命のアーティスト、フェルナンド・ボテロの果てしない欲望と衰えることのない情熱が導く逸話を追っているだけでも飽きるわけがない。その強固な信念と絶えまない実作によって、古臭いと思われていた作風を現代美術のコンテクストにすくい上げられた過程は感動的だ。それにしても、製作主体であるとはいえ、一族の当主を人柄どころか作品批評まで、これだけ微に入り細に入り語れるボテロ一家には驚嘆。