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世の中なんてクソ喰らえ的な苛立ちを無軌道に描いた前作、後半主人公二人とも堅気になり、一方は死にもう一方は地道に生きというラストに、なぜ破茶滅茶のままではダメなのかと思った。今回は最初から死の予感が漂い、不死鳥をどう捻るのかと思ってたら、二人とも良き父になり、その子供たちが、という話。堅気とか結婚とか死とかじゃない価値観を観たいというのは身勝手な願望だろうか。涙も似合わない。二人が魅力的なだけにもったいない。ずっと大麻キメてりゃいいじゃないか。
半径1メートルしか描けない映画が大多数の中、サンカを描こうとする心意気や良し。撮影の大変さも画に表れている。だからこそもう少しシナリオで頑張って欲しかった。サンカになれなかった少年の話というなら、現実逃避から山へという消極的理由から意識的に現代社会に背を向けるという積極的理由への転換点を描くべき。サンカの少女に「私たちを下に見てる」と言われた時こそ、チャンスだったのに。ちゃんとシナリオを読めるプロデューサーはいないのか。サンカのリアリティは不問。
ヤバい。酷いを超えている。原作読む気にもならない。人は一人では生きられず、世界の見方を変えることで運命は変わると自己啓発的なことを母が子に教える話だが、いくら漫画原作でももう少し人間を生身に描く努力をしないと。キレイな画を動かすだけじゃ。もし日本にラジー賞があったら間違いなく全賞制覇。いや、そんな映画ばかりか。役者も作品選んだ方が。松竹製作で文化庁の助成金が二千万円出ているが、なんでこんなものに。「宮本から君へ」を取り消してる場合じゃない。
本作のイオマンテの生贄はアイヌ神事の伝承者が飼うキタキツネ。我が子のように可愛がっている狐を神事のために殺す。これ、マジョリティ側の伝統だったら批判されないか。ナレーションが狐の心の声だと分かる。神に感謝しながら死んでいくと狐は言う。その無批判さに虫酸が走る。せめて狐を殺す瞬間を撮れよ。それが命に対する最低限の礼儀だろ。35年後が取って付けたように描かれる。子供たちはその地にいない。もう伝統も神事もいらないのだ。死は死。動物好きは観ない方が。
成田凌の力みのない芝居には好感がもてるし、時おり悪くないショットもある。それなのになんで画面に漫画みたいな加工をするんだろう。そもそもなにをそんなにしゃかりきになって説明したいのかがわからない。珍妙なキャラクターが次々と登場し、理不尽な「事件」が続々と起こるけれど、これもまた説明的な字幕以上の「事件」ではない。そこにまた挿入される湿っぽいエピソードはロードムービーの運動感を削ぐことにしか貢献していない。映画の力をちっとも信じていない。
山窩の暮らしという主題から近代日本に揺さぶりをかけようという監督の挑戦には敬意を表したい。ただ難しい題材だ。山窩たちがどんなふうに話したのか、どんなふうにふるまったのか。ぼくらはよく知らない。一方で、彼らが接触する里は1965年の日本のどこかの山村ということなのだが、そもそもこれにリアリティーがない。誰もが今風の標準語をしゃべっているし、当時の生活の臭いを伝える事物はほとんど映らない。主題が壮大なだけに、画面の貧しさが際立ってしまう。
蜷川実花というアーティストが独自の視覚的イメージをもっていることはわかる。どんなジャンルの作品でもそのイメージは貫かれており、この映画も例外ではない。美術も衣裳も、撮影も照明も、その世界に奉仕している。でもこの退屈さは何なのだろう。一つ一つの画面をどんなに美しく細密に悪魔的に作りこんでも、動く絵としての運動感にまるで乏しいのだ。黒いもややら、ちょうちょやらが現れて物語を転がすのだけれど、ショットとショットのつながりは何も語っていない。
1986年に75年ぶりに行われたアイヌの祭の記録。映像で残すべき貴重な機会である。祈りの言葉や所作、踊りや歌、服装や道具、式場や祭壇、供物やしきたり。それらの一つひとつが、この映画のいわば主役であり、それらを後世に伝えることに主眼を置いて作られている。加えて、祭の趣旨とアイヌの世界観が、殺されることで神の国に送られるキタキツネの心の声として、ナレーションでわかりやすく説明される。長老の祈りはすべてアイヌ語と日本語の字幕がつく。
根幹の井浦新と成田凌とのバディ感は悪くないのに、何を見せられているのか迷子になりそうになる雑多な枝葉に、個人的には困惑した前作。そのパラレルワールド的な位置づけで、クラウドファンディングも募るなどファンありきの企画に、外野から口を挿むのも野暮な気がするが、誰にとっても死との距離が縮まったコロナ禍を経て、粘着質だった暴力描写はマイルドに転じ、拍子抜けするほど平和な着地点に到る本作は、色々な点で、今後の映画の方向性を指し示す一例となるかもしれない。
東京五輪翌年の高度経済成長期を背景に、日本各地の山を転々と渡り歩いてきた、流浪の民が迎える転機。“ゴルフ場建設予定地”の看板や、主人公のステレオタイプの威圧的な父親の説明台詞だけでは、特異な時代性を表現するには不十分ではないか。環境映像のごとき自然の様相にも、安定した美しさはあるものの、常に変化する厳しさとも格闘しつつ、山の民が長く暮らしを営み、都会っ子の少年までも魅了してしまう、生活空間としての趣や奥行きのようなものが欠落して感じられた。
エンドクレジットで一際目を引く、“セクシー所作指導”なる職種に苦笑しつつ、美や色気などをめぐる、観る者個々に委ねられるべき判断基準を押しつけるがごとき、けばけばしい世界観に疲弊。登場する度にお色直しに余念のない、柴咲コウのコスプレショーとしては一見の価値ありだが、彼女が示唆する人生訓めいたものは、今更な感じが拭えず。制作陣の原作のヴィジュアル再現への半端なきこだわりが、却って物語の脆さまで露呈する、皮肉な結果を生んだようにも思われる。
見るからに仙人の日川善次郎エカシの、とぼけた一面や女房泣かせな過去にも光を当てることで、そんな彼が誇りと責任感とともに緊張の面持ちで臨む、アイヌ伝統の厳粛な祭祀への取っつきにくさも薄れ、入り込みやすい。死にゆくキタキツネのモノローグに幾分あざとさを覚えつつ、殺生を繰り返すことでしか生命をつなぎ留められない人間の宿命や、だからこそ、生きとし生けるもの全てに畏敬の念を払うべき重要性に、改めて向き合う契機をもたらす意味では、十二分に効果を上げている。