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女の子がダンスしてるときの表情が、くるくる変わるところがめちゃくちゃ可愛かった。出てくる人たちがとにかく全員いい人で、それだけで泣けてくる。お姉ちゃんがアホで、うまくいかなくて、間違えまくって、物語は進んでいく。このお姉ちゃんがどうなるのか。見ていてハラハラする。自閉症の妹が一人でいるときの危うさにもドキドキした。周りの人たちに支えられていたのは、妹だけではなかった。人は一人では生きていけない。誰かといないとつらくてしょうがない。
いきなりの残酷描写がえぐい。何回刺すねん。ゲゲッってなった。摑みはオッケー。自殺すれば戻ってこられるのに、なかなかできないっていう設定もいい。困難な状況をどう解決するのかで、物語は進む。先が読めなくて面白い。他人の脳に入って、殺人を繰り返す主人公の女の人がよくわからない。残酷な殺し方を選ぶ彼女に何があったのか。よくわからないまま最後まで行く。ラストの殺しもよくわからなかった。分かる必要もないのかもしれないが、すっきりしない。
発想の元がどこから来ているのか、全然わからない。シリアスかと思いきや、変なユーモアがある。時々あの音が鳴って、びっくりする。何度も忘れた頃に鳴るので、そのたびにびっくりする。主人公の女の人がいつもウロウロしている。誰かと話をしている。記憶についての会話が面白い。いったいどこに着地するのか? 最後のアレもぶっ飛んでる。映画の面白さはいろいろだなと思う。何も起きないようでいて、何かが起きている。発見の喜び。哲学とユーモアが大事と改めて思う。
なんだか安っぽい。冒頭の殺人がのんびりしていて、笑ってしまう。いきなり時間が飛んで現在になって、またゆるい若者たちの会話。何を見ていいのかわからない。どうせこいつら殺されるんだろうなと思ってしまう。起こるエピソードが全部、お話のためになってしまっている。誰かが殺されるために、みんなと別行動させるとか。結局、人を食うこいつらはなんなのか? 一向にわからないままだ。取り上げられる赤ちゃんが、まんまオモチャだったのにはびっくりした。
自閉症、アルコール依存症、HIV感染者と社会的弱者たちに光を当てているといえば聞こえはいいが、踏み台にしているようにしか見えない。ポップスターでもある監督の実体験がベースに、といえば文句が言えないことも織り込み済みで。だいたい、冒頭から物語を展開させるためにおばあさんの死を利用することも許しがたい。これまでも自らの曲のMVを監督してきたという“卓越したセンス”についていくことができず、大変に戸惑った。涙は大切な日のためにとっておきたい。
ハーヴェィ・ワインスタインを彷彿とさせる男が最初に殺される。現実で殺せないなら映画のなかで殺せといわんばかりに、恨みのこもった見事な滅多刺し。そんな意図があったかどうかはわからないが、執念のこもった殺し方は、映画だからできる素晴らしい表現のひとつでもある。緊張感の漂うなか繰り広げられていく殺し屋の意識と、乗っ取られた肉体の持ち主の意識がぶつかりあい、また残忍な殺しが起こる。鮮血が飛び散り、自分も返り血を浴びたような気分になる。爽快な美意識。
ゆるやかに動いてゆく時間の中で完全にフリーズして止まったように見える登場人物たちの表情/無表情に、時々なんとも名づけがたい感情を呼び起こされる。コロンビアの森の中にふとあらわれた精霊のような人間の姿、フェルメールの絵画のような光と暗闇が同居した部屋の中に佇む男女。男の遠く深い記憶を受信し、女は自分の記憶として受け止める。彼女に聞こえ続けているその音は、不穏であるが心地よくもある。決して何も断言できない。けれど、私の記憶は私だけのものではない。
この手の映画は毎度毎度、懲りることなく妊婦が殺される。赤ん坊がその先の物語を担う役割として生かされることも容易に想像がつく。怪しげなレイヴにも行ってはいけないし、男女数人でバンに乗り込んでバカ話をしてもいけない。絶対に殺される。ここまでステレオタイプだと、もはやホラーと呼んでいいのかどうかわからなくなってくる。初めて映画を撮ったのかと思ったら30本以上監督しているとは。とはいえ、この手の映画は毎度毎度、懲りることなく見たいと思ってしまうのだが。
どんな高尚な理由があろうと許容しがたい。本作のエイブルイズムはすでに批判されているが、正直それ以前の問題だと思う。自閉症を物語と演技と振付けのアクセントにって、一体どういう神経をしているのか。表情も声も身振りも様式化されたかたちで「自閉症」が表現されていてまったく見るに堪えないし、太陽の光を浴びて「普通」の表情に戻すくだりは醜悪そのものだ。また、NY生まれの俳優にアフリカ訛りで話させるのも根は同じ。マイノリティの物真似をして何が楽しいのか。
ゴアとかスプラッターとか、完全に自分の理解を超えていることを正直に告白しておく。好きな人たちがいるとして、でも私はやはり苦手である。途中、何度か薄目で見た。あと、とにかく血が出るシーンが必要で、その整合性を付けるためにいろいろと理屈が捏ね回されているようだが、そういう「知的」な言い訳も好きではない。父クローネンバーグの影響というより、目配せのようなものを随所に感じるも、大きな違いはバカバカしさの有無ではないか。息子の映画は真面目一辺倒に見える。
「脳の映画」という概念を思わず想起する。頭の中で正体不明の音が鳴り響くというジェシカの音探しの旅に付き合ううちに、観客は彼女の頭の中そのものへと導かれていくからだ。いや、個人を超えた大きな記憶を受信するジェシカは映画の擬人化なのだろう。頭の中にだけある、言語を超えた実体のないもの。そんな何かに形を与えるための移動と出会い。音響技師エルナンは、彼女の言葉を頼りに効果音を組み合わせて音を再現していく。まるでこの映画の作業現場に立ち会うようだった。
本作は語りのエクササイズであり、ホラーはよくこの種の試みに利用される。基本的に、登場人物は何人いようと2つのグループに分けられ、片方が「殺される者」、もう片方が「生き残る者」になるが、生存者たちも次の瞬間また2つに分けられて、どんどん数が減っていくわけだ。仮に10人いてもその10人が別々に行動するようなことは起こらず、必ず2つのパラレルアクションに限られる。2進法からどれだけ複雑な展開のパターンを生み出すことができるか、それを競うゲームなのだ。