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レトロ・フューチャーな美術デザインが本シリーズ最大の見所。今回は現代絵画の古典エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」を彷彿させる光景がさすが。メカの手作り感と脱げそうなマスクのへなへな感もキュートでいい。また日本映画「予告犯」のSNS動画とか「天国と地獄」のクライマックスを意識している場面もある。だからお得感は認めたいが、せっかくリドラーを登場させシャレを利かせたつもりの話が大してシャレてない。政治家や篤志家の偽善を暴きましたってだけじゃあ。
私はブレッソン映画を理解しない。評価は読者に任せたい。半世紀近い昔のフランスの姿が鮮明に蘇るのは見応えあり。しかしある時期以降の彼の映画は「台詞言わされてる感」が強く、辛い。美しい若者がどっさり出てくるので目の保養にはなろう。主人公は退潮期の学生運動にも信仰にも絶望しているが、義には篤い。それが生きづらさを加速させるものの、彼は当てどなく街路を彷徨ったり数式をノートに書き留めている時の方が台詞を語る時よりも自由に見える。そのアンバランスが魅力。
パーソナルな視点に立った世界終末SF。この発想は面白い。雪に閉ざされた都会を侵入者に怯えながら歩き回る主人公の姿は「町中でのサヴァイヴァル」という主題に連携する。雲を衝く巨大モンスターや虚弱なヴェノムみたいなエイリアン、ヴィジュアルは最上だ。ところが細部のアイデアに乏しい。かつて『ミステリー・ゾーン』が30分で語った物語に100分かけてる印象。友人の彼氏と浮気し、その友人が死んで喪失感に囚われ、といった物語の背景がほとんど効いていないのが惜しい。
タイトルがポエティックなのはお手柄だ。今やサブというよりメイン・ジャンルとなった観のある「女殺し屋」映画。殺しのテクニックも様々な先行作品へのオマージュっぽくて面白い。「必殺」シリーズの中条きよしを思わせるものまである。しかし諸事情はあるにせよ、いたいけな子供に「契約(仕事)で行う連続殺人は正当化される」なんて嫌な言い訳をして欲しくない。ところでオマージュといえば、ブライアン・デ・パルマ的な遠近同時に焦点を合わせる画面が効果的かつカッコいい。
フィルム・ノワールの雰囲気を漂わせながらとにかく暗さを基調としたオーセンティックな世界観に没入できる。ただバートン版もノーラン版もそれぞれジャック・ニコルソンとヒース・レジャー演ずる悪役が鮮烈さを携えていたところに大いに魅力があったため、「ザ・バットマン」はそこを期待していたら物足りなさが残る。字義通りの意味で強い女性が落下しかける男性を引き上げる描写が一つの山場にあたるのは直近の「マトリックス レザレクションズ」等にも共通するフェミニズム的要素。
映画はまずひとりの青年の自殺/他殺の新聞記事を映し出し、そこから遡及的にその地点までを描いていく。死に取り憑かれた青年の死は、個人の死と集団の死、身体の死と精神の死、現実の死と比喩としての死といった死の二分法を解体せずそのまま抱え込んでいる。実際の公害や環境破壊の報道映像が差し込まれながら、世界が壊れていくのに耐えかねる青春期特有の絶望感と時代的退廃が刻まれた1970年代のパリを舞台にした映画として、ベルトルッチの「ドリーマーズ」と双璧を成す。
大切な存在を失った少女の心象風景を抽象的な映像でコラージュして象った世界観は、たとえばギジェルモ・デル・トロの「パンズ・ラビリンス」や、リサ・ブリュールマンの「ブルー・マインド」といった作品の要素が乱反射している。実写映画のなかに挿入されるアニメーション映像も多くの場合浮いた印象を受けてしまいがちだが、この映画では効果的。監督がクリエイティビティを遺憾無く発揮して感覚的に紡がれた物語なだけに、論理性と辻褄を求める観客には向いていないかもしれない。
男性をひとまとめにして悪に見立てたわかりやすい二項対立には賛否があるだろうが、予想以上に良質なフェミニズムでかためられたアクション映画。ヴァージニア・ウルフをはじめとしたフェミニスト作家たちの本を戦闘道具として導入している小ネタも洒落がきいており、両手の麻痺したカレン・ギランが小さい女の子と手分けして運転する迫真のカーアクション・シーンなどは十分に魅せてくれる。ただし、既存のアクション映画の枠組みに留まらずに飛び越えるものがもう少し欲しかった。
ティム・バートンが構築した美学とクリストファー・ノーランが確立した哲学を天才マット・リーヴスがどう料理するのかを楽しみにしていたものの、冒頭からどうもアクションが連鎖していかない。CGの猿すらグルーヴさせた彼が、である。暗いシングル・ショットばかりで距離を見せるショットが乏しく、サスペンスが効かない。ノーラン版のマチズモに抵抗したのであろうブルース・ウェインの造形も自閉していていまいち乗れなかったが、靴音とバットモービルの排気音には萌えた。
フレームの隅々まではっきりと見えるデジタル・リマスター版でブレッソンの演出の厳密さはいっそう際立ってくる。水辺のシーンなどこの世のものとは思えない。しかし難儀な作品だ。神も悪魔もいないと言いながら、鋭いパイプオルガンの音を聞くとただちに大聖堂を見上げてしまうわれわれがいる。一方で、世界のどこかで撲殺されていくアザラシのこどもがいる。この世を覆う暗黒の力に気づきながらも、聖堂の賽銭箱から転がり出てくる金属片を今日も拾い集めるわれわれとは。
「クワイエットプレイス」のような異星人との闘いを想像していたら、現代的な日記映画であった。いや、語りやショットも著しく統覚を欠いており、ほぼ散り散りなので、映像インスタレーションの一種と呼んでもいいのかもしれない。そんな断片的な映像群にどの時間軸から届いているのかわからない亡霊たちの声が響く世界は、サントラのバンドたちがよく鳴っていた時代に某予言通り滅亡してしまったもうひとつの世界のようで、あり得た何かを垣間見てしまったという奇妙な余韻が残る。
こういうルックを見るとどうしてもエドガー・ライトの諸作を思い出してしまうのだが、本作はエドガー・ライトの作品ほどのユーモアのキレや脚本の構成力があるわけではない。ただし、本作の演出家は、ともするとカット割りとCG頼みの演出になるエドガー・ライトとは違い、どこまでも俳優の芝居を信じようとしているように見える。その結果、アクションのキレは大きく削がれてしまっているものの、使い古されてしなびているはずの類型的な物語には不思議と血が通っていた。