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アメリカ人が3・11を題材にコメディを撮ろうとする。チャレンジな企画だと思う。しかし残念ながら、劇中映画がコメディでもなければ、本篇もコメディではない。そこはちゃんと笑わせた方が。被災地に東北と字幕が出る。東京は関東ではなく東京なのに。被災地もいろいろ。津波被害が被災地であるのと同じように原発被害もまた被災地。なのにそっちはネグレクト。タイトルバックにも福島はない。安全圏で作った感は拭えない。それでも被災者の話を聞く主人公の表情には心打たれた。
給食を巡るあれこれ。アレルギーやイスラム教の子供で多様性をやるなら、給食でしかまともに食べられない子供の貧困もやるべき。学校も図書館も美しい。金持ちの芦屋市が特別だと客観視する視点が必要では。教育映画だってそれくらいやっている。いかにもの脚本に芝居に音楽。人間ドラマはどこに。市制80周年記念で描けないことがあるのは分かる。ならば、そういうものにタカって映画作るのはそろそろやめにしよう。自ら映画の可能性を捨てることは自らの首を絞めることと同じだ。
出演者が全員共同脚本でクレジットされている。一緒にリアルな芝居を追求したのだろうが、繰り返される台詞はリアルというよりユルい。不必要なシーンも多く構成もユルい。ネットに被害者情報を流す犯人を仲間内に作るなど、作為とリアルもアンバランス。同性愛も効いてない。現実を一箇所に集めた時点で現実じゃないし。テーマを追求する余り、映画としての面白さの追求が二の次になっていないか。リアルをユルい脚本の言い訳にしてはダメ。まずは脚本。一スジ二ヌケ三ドウサですよ。
本作に限らずだが、この平坦さは何だろう。短篇アイデアを長篇にする肉付けも掘り下げもない。幼子を亡くした女は最初の殺しまでどう生きてきたのか。他に殺しているのか。そのキッカケは? 狂気を狂気として描くのではなく、一縷の共感を探さないと。少年然り。「たまに圧力鍋の中にいるみたいな気持ちになる」と女が言った直後に笛吹きケトルが鳴る。こういう台詞と描写を何度観てきたことか。自分にしか撮れない映画が作れるかという恐怖はないのだろうか。それが一番のスリラー。
「カメラを止めるな!」同様に映画内映画を巧みに織り込み、随所に笑いの要素をちりばめながら、脚本の上田慎一郎の真摯な資質がよく表れている。東日本大震災という重い題材に、「部外者」はどうかかわることができるのか、深い悲しみを抱えた人々、困難に直面した人々に「笑い」は力を与えられるか。そういうことをまじめに考えながら、この題材に向き合う自分たちの姿を、登場人物を通してさらけ出す。であるがゆえに、この映画は笑えない。映画内映画に笑えないように。
大鍋で作る煮物はおいしそうだし、卵アレルギーの子への湯葉のオムライスやムスリムの子への豆腐のハラルフードもすてきだ。スコッチエッグは忘れられない思い出になるだろう。「食べることは生きること」という言葉に異論はないし、栄養士と調理師の努力に頭が下がる。芦屋の街の光景も、情緒的な音楽も、丁寧に意図を説明する演技も、芦屋市のプロパガンダ映画としては最高の出来栄え。だからこそ、これを街の映画館で見よ、映画として評価せよ、というのは拷問に近い。
「日本の夜と霧」を連想させるようなディスカッションドラマとして興味深く見た。セクハラ事件が起こった職場の社員たちが保養所に集まるという設定自体が現実離れしているけれど、さまざまな登場人物を一つの街、一つの部屋に閉じ込めて向き合わせたことに意味があるのだ。そんな非日常空間が一種の自白装置となって、十数人の登場人物は職場や社会で押し隠していた本音と悪意をあらわにする。即興の対話を長回しで撮るという方法も、俳優たちを追い詰める武器になったろう。
「ハリヨの夏」で父と娘の関係を撮った中村真夕が、母と息子の関係を撮った。しかもノスタルジックな青春映画から一転、緊迫感のあるサスペンスとして。黒沢あすかの不定形な魅力を引き出し、その年齢でしかもちえない艶やかさを生かしている。もともときれいな人でプロポーションも抜群なのだが、後ろ姿の背中のかすかな丸みなどが、ぞくぞくするほどすてきだ。オレオレ詐欺の青年をからめとるアパートという密室、鏡を多用した演出がサスペンスの恐怖を大いに盛り上げる。
これも“震災映画”の一本だが、最も無難に思えるドキュメンタリーを蹴り、リスキーなコメディを撮るべく3・11に向き合う米国人監督が主人公という点は目新しい。しかし、震災を機に日米に引き裂かれた夫婦の話に移ると、笑いも消失。紆余曲折を経て監督が自費で完成させた設定の映画も、ユルい出来映えが想像され、エモーショナルな歌の力に完敗しているのも歯がゆい。映画づくりを題材にするなら腹を括り、部外者にしかできない表現とは何かを追究すべきだったと思うのだが。
阪神淡路大震災後に生まれた栄養士1年生と、ある小学校のクラスの最終学年とを連動させ、給食をかけがえのない青春の一部として描く構成が活きる。“食べることは生きること”という主題は、コロナ禍の今、より切実に響く。ビゴのパンや村上春樹など芦屋PRも怠らず、様々な理由で同じメニューを食べられぬ生徒のため知恵を絞るスタッフの無理難題にも応える生産者の心意気や、子ども相手にも妥協せぬ調理師の矜持に、お仕事ものの趣も加わる、ご当地食育エンタテインメント。
セクハラ事件に揺れる某職場の一行が赴く江の島にて、リゾート気分や酒の力も手伝い、被害者と周囲との温度差や各々の赤裸々な本音が徐々に露わとなる。修羅場を創出する意図は分かるが、全篇の大半を占める旅行(×2)の趣旨や参加者の動機が曖昧ゆえ、作為的なシチュエーションに映るのは難。疑心暗鬼に陥る当事者に容易に共感させず、自らの正義を叫ぶ同僚や上司の物言いにも説得力を与えることで、厄介な波紋を広げ続けるハラスメント問題への、自身の見解も試される対話劇。
未だに根絶するのが難しいオレオレ詐欺の背景に潜む、母親と息子特有の一筋縄ではいかないしがらみを、シニカルな心理ドラマに昇華させた異色作。冒頭から既に、ただならぬ妖しさを醸し出す黒沢あすかが、行き場を失った母性に囚われて狂わされていく女性の業を力演。いつかは親元を離れる子どもと羽ばたく鳥とを重ね、巣立ちの後も何かを待ちわびるように、ぶら下げられたままの空っぽの鳥かごが、寂しげなモチーフから恐怖の暗示にも見えてくる、ぞわっと戦慄走るスリラー。