パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
主人公がカッコ悪くて、女の旦那の方がカッコよくて、変なキャスティングと思った。男が歌手の奥さんに惚れて、その旦那との三角関係。この手の話、安っぽいはずなんだけど、やたらと重々しい。男はいつも雨に濡れていて、惨め。頭は禿げてるし、尾行ばっかりしてる。情けない。野良犬はそこらをうろうろしてる。セリフはわかるようでいて、よくわからない。哲学っぽい。何が起こるかわからなくて、ドキドキしてずっと見ていた。モノクロのわびしい風景が記憶に残る。
二人だけで撮ってるとは思わなかった。客観ショットがいくつか入っているので、誰か撮影する人がいるのかと思っていたのだ。まんまと騙された。自分らだけでどうやって旅を撮るのか、様々な工夫が見える。人々との触れ合いも微笑ましい。この二人、実にいい奴らだ。いい奴すぎて物足りない。何をするのも楽しそうで、どこがツライんだ、贅沢言うなと思ってしまう。二人の切迫したものが見えない。何を考え、何のために走っているのか、冒険とは何か、もっと知りたい。
子どもたちが淡々と恐ろしい体験を語る。どういう風に人が殺されたか。無邪気な分だけ、怖さ倍増だ。国境に暮らす人々は、みんなじっと何かを我慢している。声高に何かを訴えることをしない。見ていて、ジリジリしてくる。戦闘地での人々の淡々とした日常。写っている人たちは、みんなカメラがあることを意識してないように見える。どうやって撮ったんだろう。不思議だ。少年が疲れて、ソファに横になって、体を長々と伸ばす仕草に、本当に疲れてるんだなあと思った。
音痴の男の子が音痴のままでどうなるのかが見たかった。あそこで選手交代はないやろ。何とか助ける方法はなかったろうか。登場人物たちはみんなヘタレだ。ヘタレたちが少しずつ集まってくる導入は、ワクワクした。それぞれのキャラクターは面白いのに、話が盛り上がっていかないのはなぜだろう。もう一歩、何かアイデアが足りない気がした。少女誘拐のネタも、こんなんすぐ捕まるやろと思うが、なかなか捕まらない。ご都合をぶっ飛ばす、珍妙なエピソードが欲しかった。
話し声も、歌も、雨音も、赤ん坊の泣き声も、ガラスが割れる音も、犬が吠える声も耳の奥に突き刺さってくる。そして永遠に終わらないタンゴが繰り返される。人々の顔はいつも挑発的で、悲しげで、不機嫌だ。どこで何を間違えたのだろう、男も女も自分の人生が間違ってしまったことはわかるのに、まるでどこか他人事のようでもある。ちょっとしたシーンで釘付けになる。例えば、ドアを閉める行為ひとつをとっても。永遠を終わらせようともがく男の姿がとても悲しい余韻を残す。
自転車でオーストリアからオーストラリアへの二人旅は、決して気楽なものではない。自転車で移動するということはむき出しのままでいるということだ。気候がいい場所や整備された場所では快適でも、時に雨にさらされ、虫に苛立ち、水を求めて彷徨う。思いがけない出会いが物語を魅力的にする。あっという間に映画が終わるのとは反対に、実際には膨大な時間がかかっている。編集も大変だったに違いない。この旅が二人の人生にどんな影響をもたらしたのか、いつか続篇を見たい。
美しい生活などというものが存在するだろうか。安易に美しいなどと言っていいのだろうか。では悲しいだったらいいのか。どんな形容も簡単にしてはならないような、生々しいものが延々と映っている。生々しいのに生々しくない。語られる言葉や人々の顔に刻まれた悲しみや苦しみを、ただじっと見つめていることしかできない。この映画が流れている間、すべての時間と感覚をそこに集中させなければならないという気持ちになる。それが観客という立場でいられる人間のせめてもの敬意だ。
タイプの違う少年たちアクセルとグリムに、孤独な9歳のチェリストの少女と17歳の名ドライバーが加わり、バンド大会へと向かって車が走り出す。これはひとつのバンドがバンドになる序章の物語だ。どの登場人物も好きにならずにいられない。ロードムービーの途中にはさらにいろんな人が加わり、問題は連発する。不思議と何度も涙が溢れてきた。特に、アクセルが音痴だと言い出せないグリムの優しさには胸がきゅっとなる。しかし、音痴役って実はすごく難しいのでは。
タル・ベーラの試みを一言で要約するなら、〈画面外〉に存在論的な根拠を与えることだ。カメラが長回しでゆっくり動く。空間と時間の連続性を保ったまま、フレーミングが変わり、そのつど恐ろしいほどの精度で見事な画面が生み出されていくが、その実フレームの内側だけで完結しているショットは一つもない。カメラの運動と画面の変奏は、むしろフレーム内の充実がいかにフレーム外に負っているかを示すためにある。驚嘆するほかない緻密な音響設計が必要とされるのはそれゆえだ。
見ながら考えていたことは主に二つ。一つは、なぜドローンを使うと誰が撮ってもこんなに画一化された映像になってしまうのかということ。もう一つは、「権威」のために映画が求められているということ。この題材は以前だったらテレビ、いまだったらYouTubeか何かに向いた連続ものの企画、この旅のプロセスそのものに付き合わなければ面白くない。実際、この映画は終わった時点から組み立てられたものでしかないので、ひたすらに退屈である。それでもなお映画にしたいわけだ。
引っかかるのは、つねに「不在」が画面を成り立たせている点だ。母親が監獄の跡を訪ね、殺された息子を悼む箇所に顕著だが、どの場面も「そこにはないもの」こそが主題である。恋人たちは雨を話題にするが、それは降っていない。兵士は暗闇のなか廃墟を捜索するが、何も見つけない。携帯にボイスメッセージを残す娘は誘拐され、ここにいない。だが、この映画に偏在しながら決して映されないのは畢竟ISISであり、すべてがそれと同一の水準に置かれている。無邪気すぎやしないか。
最初は困惑して頭を抱えていたが、だんだんこの映画のあり方に慣れていき、気付くと意外と楽しんでいた。グリムがアクセルの下手な歌を評して「コーヒーみたいなもの、慣れると美味しくなる」と言っていたから、この映画自体がまさにそんなコーヒーということ。狙って音痴になることができないのと同じで、下手くそなものを作るのは実は下手くそにはできず、下手に見えるようにするには丁寧な配慮が必要だったりもする。警察署の奪還作戦がいい例だ。白々しさに宿る一抹の美徳。