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監督独特の(画面への)正対性を観客に意識させる演出は、雑誌というメディアのグラフィックと相性がいい。私としては珍しくこの監督の画面にすっと入ることが出来た。ページ立てを示して始まる主要な挿話群は雑誌の中身の映像化なのだ。記事自体はいわゆるトールテイル(ほら話)の集積で、多用されるナレーションもその雰囲気を盛り上げる。監督の想像力で変換、ろ過されたフレンチ・カルチャーの可笑しさ、という構図は警察官のグルメ料理人の挿話にとりわけ効果を上げている。
ブリティッシュ・ロックに明るくない筆者でも十分楽しめた。農場に作られた滞在型録音スタジオの半世紀、という構成は一見地味。だが、特に20世紀最後の20年はMTV最盛期と重なるので、ここでもたっぷり英国ロック・シーンを代表するグループの演奏がビデオ・クリップでフィーチャーされる。現在のパートでは、クスリの件とかあっけらかんと当事者が語るあたり、さすが英国。懐が深い。日本じゃこうはいくまい。お得意さんでも、出演辞退した方々もおり、それだけが残念だった。
本作に描かれる死が全て、愛に殉じるというより犬死にだ、というところに今回リメイクの意義を認めたい。物議を醸すであろうエンディングについても同様。冒頭のプエルトリカン・ソングは新たに採られた楽曲だがその他はおなじみの名曲。バルコニー場面と〈トゥナイト〉の多重唱モンタージュはオリジナルの趣向を踏襲、しかし〈クール〉や〈アメリカ〉は斬新な振り付けでさすが感が高い。再開発中の地域という舞台設定が皮肉な効果を上げるもこれは演出解釈の変更範囲に留まるかな。
冒頭の沼地の美しさに呆然。ここに始まる水死の心象風景が映画理解の鍵としていい。大江健三郎って印象だが、もちろん偶然である。しかし、主要な舞台はアメリカ南部とはいえ、この沼には韓国の姿もダブル・イメージされている。澄んだアジアの水だ。国際養子で渡米した主人公(監督が演ずる)のアイデンティティ・クライシスを主題とした本作。その興味深さは即ち彼にとって水とは生なのか死なのか、判別つき難いところ。クライマックスに向けてはらはらが加速するのはそのせい。
まさに「グランド・ブダペスト・ホテル」のような作り込まれたウェス・アンダーソンの世界観が広がっており、作家の思い描く理想のイメージの具現化の力量ひとつとっても、それを期待していた観客層としては瑕疵として挙げる点はない。とくにベニシオ・デル・トロと「ミューズ以上」の裸身のレア・セドゥのペインティングシーンは瞠目に値する。ただ、「世界観」と「イメージ」の完成度に対する評価以上に「映画」として何があるかと問われると、答えに臆してしまうのもまた確かだ。
この星取りで取り上げただけでもブラック・ミュージックを扱う「サマー・オブ・ソウル」やジャズを扱う「ジャズ・ロフト」など、音楽の歴史を遡って新たに現代に伝えようとする粒揃いのドキュメンタリー映画が続いている。音楽のテーマのなかでも「場所」に焦点をあてたという観点では「ジャズ・ロフト」とも近似しているが、本作は長閑な農場×ロックと、一見結びつかない同士が互いに化学反応を起こしあっていたことを伝える。作り手が現代にこの映画を必要だと感じた理由が明確。
ミュージカル映画にとって重要なのは歌とダンスの演出がどれだけ優れているかだろうが、ここには近年の同ジャンルにおける秀作「ラ・ラ・ランド」や「グレイテスト・ショーマン」で魅せられた迸るようなオープニングシーンもなく、「ザ・プロム」のような振り切ったスペクタクルもなく、鈍重な時間のみが過ぎていく。また「アップデート」された点に当事者を起用したトランスジェンダーの役柄が挙げられるが、欲を言えばそこに留まらず表象自体への思慮深さがもう少しほしかった。
16㎜フィルムで撮影された映像はどの瞬間も美しいが、あまりに情緒過多なのはこの映画にとって得策だと思えない。エンドロールに実在の人物が流れ、不当な強制送還を余儀なくされている現実の養子問題を告発する主題にあって、製作過程で起きた問題のことも気にかかる。また、末期癌の女性など詰め込みすぎている脚本を削ぎ落としていればもっと重要な映画に仕上がったのでは。最後にお互いを「選んだ」のだと何度も伝え合う父と娘の血縁関係を超えた強い親子の絆は心に残った。
台詞に出てくる固有名詞を逐一線対称の一枚絵で見せていく完成版ウェス・アンダーソンのスタイルにはもはや語りもアクションもへったくれもなく、ドールハウスを飾り込むように細部を偏執的に構築することにのみ力が注がれており、ともすると自閉しているように見えなくもないが、この圧倒的な物量と被写体の数々を前にすると、感嘆せざるを得ない。シネフィル文学青年が10作目にして到達したのが、過剰にラグジャラスなTikTokが連なったような断片の映画だったというのは興味深い。
古くはイギーやボウイも訪れ、オジーがヘヴィ・メタルを生み落とし、ストーン・ローゼズのアルバム・レコーディング中には仔牛が2頭生まれたという、この伝説的な農場スタジオの歴史に迫ることは70年代以降のUKロック史を概覧することでもある。次から次へと登場する超豪華アーティストたちによる名盤・名曲レコーディングのウラ話を、どこか恐れ多く見ていた。伝説的な作品が生まれる背景には作品自体と同じくらい突飛で斬新な発想や出来事、そして変人が存在している。
最高。本気のスピルバーグはやはり途方もなく、今やフォードやエイゼンシュテインにも比肩することは、あらゆるショットが映画の教科書に載せられそうなほど純度の高いヴィジュアル・ストーリーテリングの連鎖だけで出来ている冒頭15分をご覧いただければわかるはずだ。映画全体がこの演出密度で進んでいたのならば、上映後に筆者の脳髄は爆発していたかもしれない。それにしても、色とりどりの服を着た人々が舞い踊り、歌っているだけで人はなぜかくも感動するのだろう?
ものの2〜3時間でこの酷薄な世界を描写しきろうとすればするほど映画自体は表層的に、短絡的に暗転していくという映画表現の持つジレンマを感じた作品ではある。だが、ベタさが臨界点に達するタイミングで毎回炸裂する俳優陣の熱演と、制作者がアジアン・アメリカンとしての生の中で摑み取ってきたのであろう切実なリアリズムによって本作はギリギリの綱渡りに成功してゆき、最終的にはナルシシズムや説教臭さすら気にならない、特異な領域を確保している。