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昔どこかで読んだことがあるような童話の世界。洞窟の中での語りっていう設定がいい。冬山に閉じ込められ、話をするしかない時間。子どもの頃、寝る前に絵本を読んでもらって、だんだん眠くなっていく感じ。懐かしかった。前半はクマたちが様々な困難を解決する冒険譚。これで終わったら残念だなと思っていたら、後半は一気に苦い話になっていく。あんなに英雄だったクマもちょっとしたことでダメになる。人もクマも一緒。教訓めいたところが童話っぽかった。かわいい映画。
棒のようにか細い女の子が、バスの中でレイプされる。声を出せないので、誰にも気づかれない。気づかれても放っておかれる。逃げ場はない。ここで生きるしかない。転校生の男の子も彼女を救えない。彼も主犯の男の子にフェラチオを強要される。あまりの無残さに「やめて!」と声を出してしまった。追い詰められた二人のラブが物語を動かすかと思いきや、話は主犯の男の子へ転がっていく。できればもう少し二人のラブストーリーが見たかった。ラストも不安が残る。
延々と料理する描写が続く。全然終わらない。家事ってメッチャ大変。追いまくられるヒロインが健気すぎて涙が出る。対する男どもはことごとくポンコツだ。旦那のお父さんが笑顔で、釜で炊いたご飯がいいとか、洗濯は手洗いがいいとか言っているのを聞いて、めっちゃムカついた。インドの主婦がどんなに不当に扱われているか、描写に強烈なルサンチマンがある。ユーモアなんて入る余地もない。迫力があって面白かったけど、見ているのがツラかった。意外と家事は楽しいよ。
最初の方の音楽教師のセリフから、なんだか涙が出てしょうがなかった。ヒロインの仕草、表情、歌、全部好きだ。好きなものを見続ける幸せ。彼女が歌に没頭するときの喜び。好きな男子と会話する時のトキメキ。家族と歌の板挟みになってどうにも出来ない苦しさ。ビンビンに伝わってくる。どの人物も魅力的だ。登場人物一人一人をやさしい目線で描く。やさしくてアホで生きるのがヘタな人たち。コンサートの歌の演出にも驚愕した。聞こえない耳に歌声がどう伝わるのか。すげえよ。
ただ“カワイイ”とか“エモい”ではないこのアニメーションの世界観に心底ほっとする。人間が語るクマの世界とクマ側から見たその後の世界。魔法で風船のようになるイノシシや、幽霊と楽しそうにダンスするクマたちの姿もすごくいい。クマたちは境界を超えていく。物語としての面白さもさることながら、シンプルな線で描かれる生き物たちや街の姿が美しく、魅了された。見習いの少女がいつか大人になって素敵な語り部になるであろうことまでも連想させる。
ろう学校で起こった性暴力事件。あえて見せない部分、台詞でなく手話による会話の静けさを意識的に映し出しているぶん、ホラー調の効果音や演出をしてしまうのがもったいない。韓国映画「トガニ」を思い出し、本作の大人たちの頼りなさにはイライラさせられる。協力的な先生もいい人ではあるのだけど……。事件の渦中にいるのが生徒同士というのが何とも惨い。被害を被害だと認識できない、したくないこの絶妙な心理描写のバランスに始終ハラハラさせられた。
カレー美味しそ〜などと気軽にみていると突然後頭部を殴られるような痛みが走る。ひたすら料理し続け、淡々と家事をこなす女性の姿を追っているかと思うと、感謝もなく当然のこととしてそこにドーンと暮らす男性たちの残酷さがもくもくと立ち込める。悪気もなくドヤ顔でヨガをする夫が本当に腹立たしい。監督も結婚してから特に意識が変わったそう。この台所風景があくまでも特別な世界の特殊な事情ではなく、どこにでもあるものとして描こうとしているのが窺える。
理解しあえるとは何か。通じ合えるとは何か。家族の中で自分ひとりだけが耳が聞こえるという状況の中、責任感が強く、家族思いの主人公のルビーとユーモアたっぷりの家族たちの姿がパワフルに映し出される。生まれたばかりの娘が健聴者であることを知り、喜ぶよりも自分とは分かり合えないかもしれないと過ってしまった母の思いも、娘の歌声を聞くことのできない父親の表情も切ない。ルビーを演じたエミリア・ジョーンズがこれでもかというほどに魅力的だ。
キャラクターに対して空間を大きくとった画面の使い方がいい。暖色を基調にした色の案配がいい。クマもいいけど幽霊もいい。森もいいけど河もいい。だから、この寓話がもとは1945年に書かれていても、私はここに歴史的な教訓を求めない。クマも魔法も比喩である必要はない。どんな結末を迎えようと、この物語を肯定しなくてはいけない。見ながらずっとそんなことを考えていた。老クマの声をジャン゠クロード・カリエールが担当しているのもいい。秘密を残して語り部は去るのだ。
実話を基にしたとすれば、なおさらこの題材でこの作劇はない。理由は三つ。①実際にあった事件という具体性が、ここでは虐待の連鎖とか悪には悪の理由があるといった一般性にすり替えられている。②話の展開がいわゆる謎解き型で、すべてを因果関係で説明している。探偵役のワン先生がなぜそんなことをしたのかと聞くと、みな滔々とその理由を語る。③この作劇の構図の中では、悪の根源として設定される美術教師が空白のままにとどまっているため、一番肝心の発端が不問にされる。
最初に歌が流れ出して、この声、このリズム、この歌詞、これはいい映画に違いないと信じた。あの半裸の家長も息子も悪意がないのがなおさらに不快で、とにかく早く全員まとめてやっつけてくれと願うばかりだった。反抗のきっかけが携帯で見る動画なので、この映画もそういう効果を狙ったパンフレ・フェミニスト。もちろんインドに固有の歴史的・社会的な背景はあるが、見た人それぞれがそれぞれの場所で立ち上がることを促している。「自分が飲む水くらい自分で準備しろ」。
カットの割り方やフォーカス送りの使い方に違和感があったが、途中でその理由がわかった。すべてが単なる視線の誘導でしかないからだ。コンサートの場面でさも得意げに無音にするのが特徴的なように、この映画は観客に登場人物への不可能な同一化を強いる。観客にも登場人物にも、何より聾唖者に礼を失した振る舞いと思う。少なくとも私にとって、観客がその作品とどう関係を築くかを探ることが映画を見るという経験であり、観客の反応をあらかじめ見越したような作品は信頼しない。