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監督が元生徒なので添削モードでいくけど、せっかくトランスジェンダーという自らの性自認をやるのに、どうして相手の女性視点でやるのか。セックス未遂後にカミングアウトって、性自認以前に嘘が許せないのでは。旦那の慰謝料請求をなぜ黙っているのか。他の要素含めすべて物語動かすためのご都合でしかない。再会後初めてセックスする感じだけど、それまで何もなかったのか。カットバックばかりでまるでテレビのよう。描くべきものがあっても技術がないんじゃ何にもならない。勉強勉強。
なぜわざわざ中国でこんなものを作ったのか。作家の父は子供を自分の価値観で雁字搦めにする。この作家は何を書いてきたのか。中国で作家であり続けることの困難さが父を頑なに変えたのか。そこを描かないと、単なる息子ロスものでしかなく、中国である必要も作家である意味もない。中国映画で描けないことは中国ロケ映画でも描けないのか。ならばわざわざ作らなきゃいいのに。冨川元文の脚本に心震わせた時代が確かにあった。作らなくていい映画、やらなくていい仕事があるのでは。
これはダメだ。結局、娘が父親の本当を探す話なのだろうが、ならばALSの妻を自殺に見せかけて殺すまでに娘をちゃんと描かないと。娘の存在があって尚、母は死を望むのか、父は妻を殺すのか。事の顚末を知らずとも葛藤を感じるから、娘は父を探すのではないか。そこに座間事件の犯人モデルが絡むから始末が悪い。内面を描けないなら、犯人目線パートなどやるべきでない。これを褒める人は絶対いると思うし、そう勘違いさせる力はあるけど、こういう話をやる最低限の礼儀がない。酷い。
こんなものを作って、誰が得をするだろう? せめて役者の経歴の足しになればいいが、これじゃ汚点にしかならない。コメディなら何をやっても許される訳ではない。白昼の公園で拳銃撃ってはダメだし、覗きをやるならバレない位置関係じゃなきゃダメ。そんなことに平気な監督がまともな脚本を書けるはずもなく、演出が出来るはずもない。作品どころか商品にもなっていない。これを配給・宣伝する会社もこれを上映する映画館も映画に対して不誠実。こんなもの、映画として論じたくない。
多様な性自認が社会に認められるようになるにつれ、壁の存在もまたくっきりとしてくる。トランスジェンダーとの事実婚をどう維持するか。子供をもつにはどんな方法があるか。試行錯誤する二人がぶちあたる壁を具体的に描き出したところが、この映画の手柄。そこに飯塚花笑監督自身の切実な生が反映しているから、劇的な緊張感も揺るがない。ただどうしても食い足りないのが、ユイが子供をもちたいという実感。この渇きをもっと深く丁寧に描いてほしかった。欲張りすぎだろうか。
家柄が違うために親が息子の結婚を許さないという悲恋のメロドラマとして始まり、死者がよみがえるファンタジー、さらには詐欺師ものへと緩やかに変転し、最後は残された者が息子の死を受け入れるグリーフケアの物語として着地する。ずいぶん難しそうな構成のドラマを日向寺太郎監督が人情劇として成立させている。それも中国という異国を舞台に。生活様式が違っても親子の情愛に変わりはないと言えばそれまでだが、中国人俳優たちを相手に自分の演出を貫いた力量は評価したい。
ミステリーである。失踪した父を探していた娘が日雇いの現場にたどり着く。父の名前が呼ばれると、父とは違う若い男が振り返る。そこまでの前半部分に漂う不穏な空気がすごい。このねっとりした湿度というか、ざらざらとした感触は、大阪という土地の力だけでなく、片山慎三監督の独特の感覚と図抜けた描写力のたまものだと思う。「さがす」という身振りが五感で感じ取れるのだ。インターネットと現代社会の闇の部分へと踏み込む後半の謎解き部分はやや図式的で、緊迫感が薄れる。
神代辰巳の“おんぶ”のパロディかと醒めつつ、不覚にも感動してしまった。哀れで滑稽なインポテンツの老人が、すっぽんぽんの女を背負って、夜明けの海まで走る。そんな身振りに十分映画的な何かがあるのだ。コメディ版『眠れる美女』としてのウイットが面白いというより、胸を揉むとか、ベンチの匂いをかぐとか、ソフトクリームを舐めるとか、そんな下卑た身振りが、素人っぽい作りもあいまって、えらく艶めかしい。一度も性行為に及べないエロ映画なのに退屈しない。
心よりも身体に重きを置く、日本の凝り固まった結婚制度に一石を投じる意図は痛いほど伝わるが、トランスジェンダーの概念のようなものの曖昧さや複雑さも浮き彫りにされた気がした。さんざん遠回りをしたふたりの苦渋の選択とはいえ、望んでも難しい子どもを授かる手段を第三の人物頼みにする展開は、不妊治療などに悩むひとには、少々ご都合主義に映りはしないか。外部にも心を配ってこそ、“フタリノセカイ”でしか築けない幸せのかけがえのなさが、一層際立つように思う。
息子の不慮の死が投げかける重層的波紋を、人間ドラマの良作を撮り続ける日向寺太郎監督が細やかに映す。厳格で理性的だったはずの父が、スピリチュアルなものに救いを求めるのに対し、夫の陰で家庭を支えてきた母は、現実を受け止め逞しく変貌する。日中友好の象徴たる日本人留学生は、息子と生き写しの青年の素顔を引き出し、深まる夫婦の溝の修復にも尽力。決して消えない後悔や罪の念も故人を偲ぶ拠りどころにして、喪失の痛みとともに生き続けるための道しるべとなり得る力篇。
偽善を憎み自分の眼で見たものしか信じない女子中生が、ダメ親父とつましく暮らす大阪の下町と、いくつもの偽名を使い分け、むき出しの本音や狡猾な嘘が殺伐と飛び交う電脳空間。ママチャリで連続殺人犯を猛追する命知らずの親孝行や、死にたいのに死ねない薄幸女性の超人的生命力などに誘発され、相容れない双方の領域が次第に侵犯し合い、想像だにしない事態へとなだれ込む。さがしものを見つけずにいられなかった娘と、隠し事の下手っぴな父親ゆえの、あまのじゃくな愛に涙。
ろくな若者が登場しない高齢化社会を背景に、かの『眠れる美女』を、コミカルかつ現代的な切り口で捉え直そうとする発想自体には興味津々。しかし結局のところ、無理やり他者を眠らせなければ何もできない、妄想と現実との見境がつかなくなった老人の、独りよがりな悪あがきに終始してしまう。川越ゆいが飄々と好演する、あっけらかんと楽天的な“美女”と、快楽のキャパシティが小さすぎるペシミストの青年も交えた、奇天烈な三つ巴が生む化学反応の行方をこそ観てみたかった。