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本作に関しては、物語の背景が監督(にして主演女優)と亡き母親の実生活にあることをきちんと知って見た方が楽しめる。エンディングのクレジットに余計ぐっとくると思う。未来を変えようという時間旅行SFみたいに見せかけるものの、実際はそうじゃない、ということも知っておいてもらって構わない。勝ち組負け組みたいな嫌な観念もやっぱり中国には横行しているようだ。でも本当に幸せなのは、という物語。「母は何でも知っている」というサブタイトルがついていても良かったかな。
理想の恋人アンドロイド物とか男性をペットとして女性が扱う話は、20年以上昔、特にアジア映画で流行った。これはその後追い企画というより、そういう世界観に対する疑義が根底にある。それは理解できるのだが、自分がたかが人間であるというだけでアンドロイドを侮辱したり性奴隷みたいにして全然構わないという主人公の潜在意識はどうなの。また、コンセプトに今一つ乗れないのは、三週間の治験期間が終了したら主人公はどうする気だったか、何となく準備設定が分からないから。
このところ出向して演出やりました、みたいな印象が強かった監督イーストウッドだが、これは製作マルパソ&ワーナーで、という最も「いかにも」なパターン。ただしアクション主体じゃなく、そっちは雄鶏に任せるというスタンス。マッチョとは一緒に旅をする鶏の名である。「運び屋」と「グラン・トリノ」は「リフレッシュされる車」の映画だったが、これはむしろ「乗り潰され、廃棄される車」が印象深い。そこには彼なりに老いの諦念もあるのだが基底には越境の楽天性があり、嬉しい。
陰惨な、笑えない喜劇というジャンルは存在するから、出来が良ければOKなのだが、陰惨なだけで喜劇として成立していないのでは評価しようがない。特に不快なのは、苦しむのが善人である主人公集団で、極悪人は最後まで平然と悪逆非道を貫くこと。こういう映画を鑑賞すると、世間の皆様は暴力映画に慣れ過ぎてしまったのではないか、と考えずにいられない。信仰は何の助けにもならないが心理療法士なら残された者の傷ついた心を癒してくれる、という物語の含意も納得できない。
生まれた瞬間から「母」だった一人の女性の若き頃に出会うため、娘が1980年代へとタイムスリップする。かつての大切な誰かがそばにいるかのように幻視させる終盤の美しいシークエンスは、同じく中国人女性の作家によるデビュー作「アラヤ 無生」(20)のそれを彷彿とさせた。「母」は「母」である以前に、ひとりの女性であり、人間である。一般大衆向けに広く受け入れられるための世俗さをやや感じさせもするが、この映画はそんな当たり前のことを思い出させてくれる。
研究職の志の高い独身女性が、理想的な男性の姿をしたロボットの恋人と過ごす実験の過程において、ロボットと相対化させるための生身の男性が登場しないのは、探求したいテーマをブレさせないための英断だったかもしれない。しかし年配の男性が自身より若くて美しい女性のロボットを連れ添いながら幸せを語る挿話の時点で、やはりルッキズムに対してあまりに無批判すぎると感じざるをえなかった。映画で使い古されてきた目新しい物語ではないだけに、もう少し現代的な視点がほしい。
タイトルをダブルミーニングにし、イーストウッドがこれまで向かい合い続けてきた「マッチョさ」を更新させた一本。フィルモグラフィで言えば「グラン・トリノ」や「運び屋」あたりの系譜上に位置付けられるだろうが、それらと比較してしまうとどうしても劣って見える。とくに「マディソン郡の橋」でイーストウッドが晒した弱さと老いぼれた自身の姿は忘れがたく、そんな彼だからこそ撮れる作品ではあるだろうが、ユートピア的な向きが強いので次作はまた異なる趣向で撮ってほしい。
マッツ・ミケルセンの前作「アナザーラウンド」も本作と同じく中年男性の集団による物語であり、「アナザーラウンド」ではミケルセンファンへの目配せも随所に感じられもしたが、今回は彼の硬派な演技自体への真摯なアプローチが見受けられる。一つの突発的な事件を主軸とした偶然と必然、生と死などの哲学的なテーマ自体は珍しくないが、「盗まれた無人の自転車の静止」と「少女が運転する自転車の回転」というオープニングとラストシーンの自転車を用いた反復による構成が美しい。
フィクションの難所がことごとく雑に処理されていて、金はあっても才能のまったくない映画学生が卒業制作にリメイクした「バック・トゥ・ザ・フューチャー」といったところか。あの頃は貧しかったが幸せだったとか、時代が移り変わろうが家族愛だけはゆるがないとか、どこかの衰退国がすがっているようなしょうもないお題目はさっさと卒業して、大国中国がアメリカとは全く違う形の大衆エンターテイメントとしての「電影」を世界に届けてくれる日を心待ちにしている。
自分のパートナーがロボットだったらどうしますかという散々使い古されたネタに真っ向から挑戦して、それなりに成功している。平凡な論理と物語展開ではあるが、主人公アルマと美しいベルリンの街並みを徹底的に見つめつづけたことで、あのベルガモン博物館での奇跡の一夜がもたらされたように思える。化学反応の連鎖としての人間の感情をコンピューターが完全に再現できるようになるまであと100年と少しだという。名状し難い愛や欲望もランダム機能で再現されるのだろうか。
いつも通り最高だったよというのでは芸がない。シナリオも粗いにもほどがあり、演出も苦笑せざるを得ない箇所ばかりだ。なんだあの亡霊のような国境の父は。だから今回も考えていた、サボテンをかじりハイウェイに打ち捨てるこの好色男がイーストウッドでなかったらどうなのだろう。しかしイーストウッドがいなければこの映画は存在しなかったはずで、それどころかイーストウッドがヨロヨロと歩むその世界にこそ映画なるものはまだ存在し、どこまでも広がっていくのだと再認し降参。
ドウェイン・ジョンソンと見間違えるほどいかつくパンプアップされたマッツ・ミケルセンはそれだけでも見る価値があるし、弱い者たちの居並ぶ疑似家族や因果律からの逃避、いわゆるな復讐劇の否定など、試みとしては面白い要素がならんでいる。ただ、やりたいことを詰め込みすぎて結果として何が言いたいのかよくわからなくなるという、監督主導映画が陥りがちな隘路にはまってしまっている。このマッツ・ミケルセンをカメラが静かに追っていればそれでよかったのでは。