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香港にはお正月映画というジャンルが存在するのだが、韓国ではどうなのかな。ともあれ、ある新年への一週間カウントダウンを四つのカップル(恋人同士だけじゃなく知り合ったばかりの人もいる)のすったもんだを核に描く。フィクション世界はコロナ禍じゃない。ウェス・モンゴメリー風のクリスマス・ジャズソングは軽快でいいんだが、何となくハッピーエンド前提みたいな定番企画。なので儲け役は主演陣じゃなく、弟が中国美人と結婚間近の未婚女性。魅力は彼女が総取りって雰囲気も。
前シリーズに引き続きジェファーソン・エアプレインのナンバーが効果的。キャラの中にホワイト・ラビットのタトゥーの人もいる。この映画を評価するかどうかは、方法論として使われる「世界への自己言及とデジャ・ヴュ(既視感)」をストレートに楽しめるか否かにあろう。差異と反復、などと言いたくないが同じ話(のヴァリエーション)をまたやってる、とは言える。システム破壊を運命づけられた美少女が実はシステム構築者の娘、という物語は有名な他のシリーズ映画から来ている。
伝記映画だがキャラクターの名前は一部変更されている。「リスペクト」にも歌われたスタンダード〈ネイチャー・ボーイ〉が、こちらでも前半のテーマ曲っぽくたっぷりフィーチャー。どうやらネイチャーという観念は良くも悪くも現在の世界を象徴する鍵語なのだろう。不思議なことにオスカー・セレモニーにおける歌唱場面はあるのに、映画「タイタニック」という言葉も文字も一切出てこない。ヴィクトリア・シオのヴォーカルとヴァレリー・ルメルシエのパフォーマンスが圧巻だ。
このトランスジェンダーのお父さんを持った少女エマというのは、監督自身をモデルにしている。若き女性監督の初長篇作品。そういう次第で時代は90年代。懐かしいことに小型ビデオカメラが重要なアイテムとして現れる。ファースト・ショットは誕生直後の彼女を捉えた、その変形サイズ画面によるロングテイクであり、説話の現在は11歳時のエマ。なので、過去と現在のサイズの切り替わりが映画的には心地よいリズムを生む。ただし人物相互の葛藤というのが意外と薄味で、星は伸びず。
オムニバスや群像劇の類の作品は、どうしても一つ一つのエピソードが薄くなるのは致し方ないために、いかに有機的にそれぞれを繋ぎえるかも価値判断の材料になるが、この複数のカップルを描く群像劇はそこが成功していない。会話する人物のバストショットが延々と続くテレビドラマ的な演出も、画面にデジタルデバイスのディスプレイやSNSのアイコンが無邪気に映されるのも、陳腐さに拍車をかけている。日本で公開される韓国映画とて、質が高いとは言えない作品は当然ながらある。
トランス・シネマとして位置付けられ、クィア・リーディングのテクストとしても映画史において重要な価値を担うシリーズの最新作にあって、やはり「すでに決められていること」と「自分で選ぶこと」といった選択可能性の問題系が引き続き顕在化している。「速さ」を意識した画面構築と、繰り返される「飛翔」の運動を武器に、このラストは次作への観客の期待を高める効果と同時に、オルタナティブな「現実」へと私たちを字義通りの意味で「引き上げてくれる」ものとして提示される。
誰もが知っている「タイタニック」の主題歌〈マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン〉のメロディが流れるや、セリーヌ・ディオンをモデルにした主人公が観客の高揚を遮断するかのように「好きじゃない」と紙に殴り書きするあたりのユーモアとチャーミングさが、コメディアンであるヴァレリー・ルメルシエの作家性を垣間見せる。そんな同楽曲をふんだんに使うなど、扇情的なドラマに仕立て上げる選択もあったはずだが、終奏に響くフレーズ「ただの普通の女」からあくまで外れない。
変化を受け入れ難い娘の視点を通し、トランス女性である親が女性の格好をした「父親」として対象化されている。観客が主人公=娘の視線に同一化することを前提とすると、トランス差別言説がネット空間を中心に蔓延る現状の日本において、この二重性は極めて危うい。決してこのような現実の当事者や周囲の経験を否定しているのではなく、あくまで「表現」としての観点から、いかにパンフレットなど宣伝上でその危うさへの配慮がなされるかまでをも考慮に入れなければ評価はできない。(★なし)
日本の90年代を思い出す躁的な空気が渦巻く群像劇。テレビドラマもテレビ局映画もまったく見ることなく40を過ぎてしまったわたしにはこの手の楽観性や肯定性が眩しすぎて、かといって作者の都合で意味もなく本音ゲームがはじまるようなトレンディ・ドラマには生きる気力を削がれるばかりで。俺がスクリーンに求めているのは地獄を這いずり回った末の悪魔のあたたかみだ! と叫んでみても、そんなものは今や誰も必要としていないのだろう。みんな幸せならそれでいいんだけど。
今やアクションのキレでは「ジョン・ウィック」に、ハッタリのかまし方ではノーランの諸作に大きく水をあけられた「マトリックス」だが、実に18年ぶりの続篇は引退した名レスラーの復帰戦を見るようなワクワク感と哀愁が横溢していて、日頃ノスタルジア・アレルギーの筆者もまったく嫌いにはなれなかった。今でもキアヌ・リーヴスとキャリー=アン・モスが向き合うと、そこには映画が立ち上がるのだ。なんやかんやあっても結局世界を救うのは運命の愛なのだと信じたくなるほどに。
老人の顔をした小学生の怪奇寸劇からまったくついていけず、芸能人のモノマネ大会を無言で家族と見ているときのような、今死んだら本当に後悔するだろうなという沈鬱な時間だけがつづき、終わった。あとから聞いた話では、なんと還暦近い年齢の監督が全世代のセリーヌ・ディオン役をこなしていて、幼少期もCGを用い演じていたという。対象への愛情や少しでも面白い映画を作ろうという意思ではなく、少しでも目立ちたいという下卑た自意識だけが走る映画が面白いわけなかろう。
90分の自伝であるがゆえのリアリズムなのか、やや性急で暴力的に思われる展開や描写も散見される。しかし、一貫して施される繊細かつ高度な演出の積み重ねによって映画としての強さを獲得している。特に、何者かになってしまう前の定まらない存在を体現したヒロイン、カヤ・トフト・ローホルトの素晴らしさは特筆すべきものだ。見られていた主体が見る主体になるまで。いつの日かパパでもママでもトマスでもアウネーテでもないそのままのあの人を誰もが愛することができたなら。