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こんなヘンな映画、絶対に書けないし撮れない。個性的としか形容できない役者たち。よく探してきたと思う。ただ何でだろう、新しさをあまり感じない。数多ある、誠実に生きたいのに世界にも人間にも違和感ばかりでうまく生きられない的な映画群と同工異曲だからか。定番に対する答えの見つからなさこそ描きたいのかもしれないが。主人公は爆弾魔のツケ髭を付け、運転手のいない車で走り出すが、どこに向かい、何と闘うのか。70年前後の大島や若松とは本質的に違うラストが見たい。
フィリピンに流れ着いた男たち。最底辺の生活を送りながら、なぜか不幸そうには見えない。20ペソ(45円)で排泄物処理や体洗ってくれる近所の人。最底辺が最底辺を支える。「なれのはて」とは被写体に対して随分失礼なタイトルだと思ったが、それが反語であると気づく。孤独死が3万人近いこの国とどちらが「なれのはて」なのか。逆照射されるのは我々だ。しかし見ているだけで辛い人たちをよく7年も撮ったと思う。この国ではドキュメンタリーでしか今を描けないかと思うとちと悲しい。
失礼ながら安易に作ったドキュメンタリーかとタカをくくって見始めて、あまりの面白さに驚く。だって、2年の島生活の最後の2カ月だけ撮影って、普通そう思うでしょ。でもその2カ月から十分に2年が想像できる。ここまで無防備な主人公を魅力的に撮れたのは監督の人柄の賜物なのだろう。結局ドキュメンタリーも劇映画も人間なんだと改めて。彼女のこの後も見たいが、撮影後、夫と奄美に移住した監督の「夫とちょっと一緒に島暮らし」も見たい。その時は田舎の嫌なところも忘れずに。
今を描きながら今がどこにもない映画がまたひとつ。ままならない人生をそれでも生きる。それが若者のリアルだとしても小市民肯定映画を23歳が撮る悲劇。演出も作劇もどこか古臭い。せめてドラマとして面白くして。恋人が人妻だと半分過ぎて客にバラす下品さ。その葛藤こそ描かないと。ホリプロ、井樫彩とか若い監督を起用するのはいいが、ちゃんとリードしないと潰すだけ。まずは原作選びから。バスローブ着たまま最後のセックスさせないで。みんな、もっとマジメに映画作ろうぜ。
会話がかみ合わないおかしみとか、物語を脱臼させる快感とか、そういうものがあるのはわかる。ただそれはかみ合っていたのがずれるとか、組み合っていたのが外れるからダイナミズムが生まれるのであって、最初からかみ合っていなければ、何も起きないんじゃないか? そんな根本的な疑問がわいた。別役実でも、コーエン兄弟でも、まず普通の人の凡庸な日常があって、そこに思わぬ裂け目が現れるから面白いのであって、最初からどこか怪しい奇人ばかり出てきたって、驚きはない。
さまざまな事情で日本を離れ、フィリピンの貧民街で暮らす困窮老人たちを追うドキュメンタリー。自転車店の軒下に居候して便所掃除をしながら暮らしたり、乗り合いジープの客の呼び込みで稼いだり、近所の女性にたらいで体を洗ってもらったり。その生活の具体的な細部が実に雄弁に物語る。少しずつ明らかになる4人の困窮老人の過去もそれぞれに強烈で現代の日本を映しているけれど、すべてを失った男たちが流れ着いたこの地でしぶとく生きているさまが何より心を揺さぶるのだ。
夫婦が別居してそれぞれの土地で仕事をする。こういうライフスタイルは増えるのだろうと思う。島おこしに貢献し、東京の夫とも会話を欠かさず、何より島の自然の色に触発されて、描く絵が生き生きしてくる。撮る側である國武綾監督が被写体であるちゃずさんに共感しているから、一人のイラストレーターの成長物語としても楽しめる。でもやっぱり映画としては食い足りない。ここには良き面しか映ってない。テレビと映画は違うんじゃないかな。ライフスタイルと人生が違うように。
こちらは大学院を出たての若い妻が夫の海外赴任中に年下の男と恋愛する話。こういう事例も増えたと思うし、「二番目でいいから」という男の煩悶が切ない。これを青春映画として描き、中盤までネタを明かさないところも新味がある。ただ大学や会社の退屈さがいかにも紋切り型で、おのずと明け方まで飲み続ける若者たちの不平不満も紋切り型になる。明大前や下北沢や高円寺あたりを舞台にした青春映画がこのごろやたら多いけれど、ただそこらで撮れば若者が生々しく映るわけではない。
頭でっかちの女の子が、黒柳徹子女史もびっくりのハートヘアーで、TVのど真ん中に鎮座する面白み。外見もシニカルな生真面目娘の心身を、天衣無縫な爆弾魔がかき乱す。釈然としないことはそのままに、話せば長くなる経緯も割愛し、とにかく先へ。そんな“大人”の事情を汲み二十歳を迎えた彼女が、スタジオを飛び出し、重たげなハート頭で軽やかに進む表情には、青くさい憂鬱から解放された晴れやかさに、何か失ったような陰りも覗く。ひねくれた成長譚の妙味が後引く怪作。
かつて日本で家庭を築くも、今や遥かフィリピンの地に骨を埋める覚悟で過ごす4人の男性たちの記録。それぞれに一本の映画が作れそうな波乱の半生を刻む、独特の風貌に魅入られる。通訳も立てず出たとこ勝負の撮影手法によって、明日をも知れぬ彼らの暮らしの混沌ぶりに加え、刹那的な日常を襲う悲喜こもごもの劇的瞬間までもが、丸ごと捉えられる。ご近所さんの孤独死をよしとせず、その生き切る姿を見届けて偲ぶ、ずぶとくもフレンドリーな地元民のバイタリティに救われる。
ちゃずさんの移住先の西阿室集落のひとたちの、大々的な送別会や、港で見せる転出・転入者への深い思いにグッとくる。東京にいた頃の彼女と絵も人格も変わったらしい一因も、集落の方々のウェルカムな寛容さにあるかもと想像する。別居期間が予定より延び続けても円満という稀有なカップルの事例ゆえ、そういう意味での参考にはあまりならぬのでは……と思いきや、最も感化されていたのが、監督自身と本作のプロデューサーも務めるその旦那さんだったとのオチには、ずっこけた。
始まる時点で終わりを視野に、流れる歳月を描く恋愛劇が相次ぐ。制約なしでは男女の情愛さえ成立させづらい、不自由な息苦しさを覚える時代の反映か。本作でも、常に漂う別れの予感の正体が中盤で明かされるが、それを境に「ありがとう」から「ごめんね」に口癖が転じる“彼女”にも弁明の機会を与えなければ、“僕”の当初の見立て=あざとい女疑惑も払拭されず、もやっと感が残る。一人称の小説ならいざ知らず、黒島結菜という個性が一皮むけて輝く映画にしたのに、勿体なく思う。