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不勉強でオリジナル版を知らなかったが、そちらの主演ヴァージニア・マドセンはニュース画面に登場。シカゴは現代建築の聖地みたいな場所だが、ここではかつての現代建築と最先端の現代建築が同居する空間を現出させている。サミー・デイヴィスの歌で有名な「キャンディマン」。しかしこの映画のインテリ黒人たちはアート・アンサンブル・オブ・シカゴっぽいフリージャズを楽しんでいて、可笑しい。彼らが、しかし黒人リンチの記憶を地域に呼び起こしてしまう趣向が残酷だ。
様々な証言の並立からなるレイプ裁判映画。とは言いつつも証言それぞれの「異なり」を強調していないのでじれったい部分がある。マルグリットが何故ホントのことを夫に告げてしまったのか、すらよく分からない。とは言え決闘に至る経緯、問題の決闘場面の念入りさは画面の密度も含めて凄い。馬上槍試合がこういう風に決着する映画は初めて見た。ブ男で無学ですぐキレるマット・デイモンというのも斬新。脚本も自分で書いている(共同)。CG感がほとんどないのに驚く。※筆者の意向を踏まえ、内容を一部訂正しました(編集部)
ユージン・スミスが宅録マニアだったとは意外。セロニアス・モンクのジャズをオーケストラ化したホール・オーヴァトンの意義は製作者コロンビーがらみで語られることが多いが、彼らのリハーサル音源の存在は貴重きわまる。実況アルバムよりも面白いほどだ。モンクは黒人だが、本作はむしろ当時の白人たちのジャズの方向性を読むのに最適。またズート・シムズの演奏、デイヴィッド・アムラム、カーラ・ブレイといった一流ジャズメンの若き日の回想をたっぷり堪能できる稀有な作品だ。
これは「パート1」なのでそのつもりで。いかにも、植民地からの叛乱という事態が世界を覆っていた60年代に書かれた原作ならではの展開。同時にP・K・ディック『火星のタイムスリップ』にも通じるトリップ感覚がキレ味よろし。主人公の王子は他者を内面から統御する「ヴォイス」と呼ばれる超能力を王の愛妾である母から受け継いでいる。父からではなく。王位継承譚とは言いながらそこは微妙にねじれているとも見える。ワーム(「ナウシカ」で言うところの王蟲)の造形も秀逸なり。
洗練されたスタイリッシュな演出を基調に、突然爆音で脅かすようなオリジナル版の古典的な演出も取り込んでいるようであり、前作への敬意が垣間見える。個人の物語と集団の物語を往還しながら、抽象性と具体性が溶け合う巧妙な寓話。前作の記憶が前提とされているのも、「歴史を学べ」という教訓を持つ作品にあって必然か。黒人同士でないのは留保が必要だとしても、ゲイカップルの描写はこれまでのホラー映画におけるクィアなキャラクターへの意識的な目配せがあるのだろう。
唯一の掌握者である女のもとから離れ、「真実」は男たちの闘いの勝敗に委ねられるが、さらにそれは形骸化し、やがて人々の快楽のためのスペクタクルな道具に過ぎなくなってしまう。時代劇として設定されているからこそ、「真実」など最早どうでもよくなってしまったこの現代社会において、それが現代の問題としてより鮮明に浮かび上がっている。性暴力の被害者女性のパートに移り変わるや、物語の地盤が不安定に揺れ動いたように感じたが、性差のある複数人による脚本と知って納得。
「MINAMATA」でジョニー・デップが演じたユージン・スミスは、正義感が強く粗暴な側面もあるが人間味に溢れた人物として描かれていたように見えたが、このドキュメンタリー映画において垣間見えるユージンの顔は、偏執的で孤高ないかにも芸術家風情の男そのものだった。コラージュされていく白黒写真の数々と大量の録音音声で綴られていく画面の埃っぽさも妙味で、ユージンとミュージシャンたちの逸話の乱れ打ちはジャズ的なセッションの様相も帯びており、引き込まれる。
ドゥニ・ヴィルヌーヴによる過去の諸作品に見られた作家性が随所に鏤められた未知な世界観への没入体験が続く155分間。デイヴィッド・リンチ版は荒唐無稽さとクリーチャーのリンチ的な造形だけが記憶に残る怪作で、同じ物語でもここまで高尚かつ壮大な次元に押し上げられるのかと、『DUNE』の映像化でこれ以上のものはないのではと思わされた。ティモシー・シャラメの顔貌がそこに負けずに存在している。ただ、物語自体は何をやっているのかまったくわからない。
鏡を覗きこんでその名を唱えると魔物があらわれるという世界のどこにでも存在する都市伝説をシカゴに実在するアフリカ系住民向けの集合住宅を舞台にして語り直すことでその地に眠る黒人奴隷の悲劇と現在のアフリカン・アメリカンの社会的地位の変化を接続させようという発想は実に面白い。このツカミだけでも2021年に見る価値がある。ただし、恐怖演出の肝となるカットが撮れていないため、なんとなく怖い雰囲気がつづく社会学の論文を読んでいるような気分になるのも事実だ。
「羅生門」に少しだけ戦闘シーンが加わっているといえば、おおよそどのような映画かは想像がつくだろう。メイン・キャラクターたちの造形はうまくいっているとは言い難く、章を重ねるごとに浮き彫りにされるのは、それぞれの複雑性ではなく野蛮さだけだ。それでもこの映画からひと時も目を離せないのは、豪奢な衣裳と美術、ヘア・メイクはもちろん、光と影、火と水、煙と風でたえまなく満たされ、偏執的に作り込まれた「画」が映画芸術の絶頂付近にまで達しているからである。
決して不快ではない、NHKのドキュメンタリーのような見やすさ、通俗性を心から楽しめるかどうか。少なくともわたしはこのドキュメンタリーを通じて、どうにも興味が持てなかったユージン・スミスという写真家にわずかばかりの興味を抱くようになった。とはいえそろそろユージン・スミスに関してはお腹がいっぱいかなというタイミングで唐突に現れるセロニアス・モンクの逸話がまるで豪華なデザートのようで、このセッションの様子だけをいつまでも見ていたいとも思った。
まずはスター・ウォーズ・サーガにつづく歴史的SF映画が同時代に誕生したことを言祝ごう。冒頭から電子の砂嵐に巻き込まれるような感覚をもたらすこの映画の音像は「プライベート・ライアン」以降屈指のものであり、画は凡百のアクション映画にありがちな、記号としての画ではなく、細やかな演出を通じ役者ひとりひとりの実存をしっかりとすくいとっている。画と音の力を等しく信じ、映画の可能性を少しでも拡張せんと愚直にあがく毎分毎秒にわたしは感動せずにはいられなかった。