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この作り手たちに名作戯曲を映画化する畏れはなかったのだろうか。確かに分かりやすく通俗的にまとめられてはいる。しかし、そこからこぼれ落ちているものの多さたるや。戯曲に罠のように張り巡らされた、人間、現実の、二面性多様性。見事にそれらがスルーされている。それこそが演劇→映画の肝のはずなのに。喋るマリアの首が祈りになっていない。原爆も戦争も絶対NOというテーマまでが表層的に見えてしまう。あの世で田中千禾夫が嘆いていまいか。演劇人に笑われていまいか。
映画を観て、気になって原作を読む。その空気感、どうしようもない閉塞感まで、見事に原作が映画に置き換えられている。役者たちもすべて原作から抜け出したように生きている(石川瑠華、仕事したい)。ただ、原作に足りないものがそのまま映画に足りていない。ラストカットもマンガと全く同じだが、果たして映画はそれで終われるのか。そこを考えて考えて考え抜くことでしか、トレース以上のもの、映画は生まれない。惜しい、傑作になり損ねている。原作愛以外の、作り手の顔が見たい。
星取り一回目でまさかの盟友の作品。「Vシネマならベストワン」と白石作品を評した人がいたが、今回もそれ以上の言葉が見つからない。敵は韓国映画というのは分かる。ただもう少しうまく嘘をついてくれないと。主人公ひとりで三年も広島ヤクザの抗争を抑えているなんて。しかも主人公を陥れるために警察が殺人鬼を野放しにしておくなんて。褒めてる人はその嘘に乗れたのか。小さな本当を積み重ねて、大きな嘘をつくのが映画じゃないのか。本物のベストワンを目指して欲しいと切に。
SAVEtheCINEMAの時に「作り手のミニシアターへの一番の支援は入る映画を作ることだ」と何人もから言われた。しかし、それが一番難しい。その壁を入江は10年ぶりの自主映画で易々と乗り越えた。だが、やはりこちらも安い嘘が気になる。家を荒らし祖父を暴行したら、立派な犯罪でしょ。なのに警察は民事に介入しないと言う。それが今の日本の縮図だとしても限度がある。一事が万事。自主映画だからこそ、安上がりしないで欲しかった。ミニシアター愛に★ひとつプラス。入って欲しい。
反戦映画の殻を被ったカトリック伝道映画。信者には受けるのだろうが、万人受けはしない。ナンジャタウンみたいなセットのなかで詩集を売る女は、映画的リアリズムにおいてはありえない。シチュエーションが少なく明らかに舞台向けで、わざわざ松村克弥が映画化する必要があったのかがそもそも疑問。高島礼子は気合が入りすぎ。マリア像の声を演じる美輪明宏の喋り方がいろいろ異次元で不気味。原爆症の悲惨さを克明に描出している点は評価できる。田辺誠一はいい。
キモ男しか得をしない中学生のセックスを延々と見せつけられる前半40分がとにかくしんどい。役者が成人しているとはいえ「少女」の裸体をこんにちこれだけ撮るということにウエダアツシ監督はどれだけの覚悟を持っているのか。朧げながら物語らしきものが姿をあらわしたところで、台風直撃の文化祭という、相米慎二でも撮らんわ、というありえないシチュエーションでドヤ顔で流れる〈風をあつめて〉。ヒロインの困り顔にも終始イライラが止まらない。うんざりするような映画。以上。
役所広司の存在だけでもっていた前作。期待はほとんどしてなかったのだが、美術や衣裳の粗さが目立った前作に対して、続篇は随分マシという印象。ただカットを割らないと涙ひとつこぼせない女優を起用せざるをえないところに大型映画の限界がチラつく(第一スナックのママに見えない)。吉田鋼太郎をあれだけ滑稽なキャラクターに仕立てる意味もよくわからない。「アウトレイジ」シリーズ意識しすぎと言ったところか。白石和彌はいつも、頑張ってるね、という感じの映画を撮る。
移民排除条例が施行されんとしている埼玉のとある町。市役所の公文書改竄をめぐって自殺した男の仇を忍者の血を引く娘が暴く。忍びの装束の裁縫と吹き矢の修行だけで、ほかは福田沙紀をいたずらに踊らせて場をもたせている。自主映画なんだから好きにさせろ、と言わんばかりの作品で発想力は大学生並み。最後の黒幕との対決も、相手がこれでは拍子抜け。入江悠監督、大型予算の商業映画の制約に飽き飽きしたのはわかるがバイブスだけでは映画撮れない。井浦新は完全に無駄づかい。
戦後演劇の名作『マリアの首』の映画化。田中千禾夫の哲学的かつ詩的なセリフの力をそのまま生かそうとした意図はわかるし、それがなくては『マリアの首』ではない。ただ舞台という非日常空間で屹立した言葉を、現実と地続きの映画の画面で響かせるのはやはり難しい。ケロイドも、原爆症も、夜の女も、ヤクザも、闇市のカオスも、焼け跡での凌辱も、映画なりのリアリティーの強度がなければ、画面は空々しい。想像力に満ちたセリフを受け止めきれず、劇的な言葉に負けるのだ。
海辺の小さな町に住む15歳の少女が先輩に手酷く振られた反動で、かつて言い寄ってきた冴えない同級生と愛のないセックスを繰り返す。ちょっと昔の青春映画によくあったような物語だが、少女も少年もえらくナイーブ。このナイーブさは今の青春ものの傾向なのか、今の若者の実感なのか。手持ちカメラの効果も含め、ウエダアツシ監督の話法はまだよく見えないが、少女たちも少年たちも人工的にキラキラしておらず、ぶすっとしているところに現実味がある。風雨のシーンは見せる。
ぞっとするような生々しいアクションが途切れない点、そこでしか生きていけない社会の底辺の人間たちに焦点があっている点で、第1篇より完成度は高い。役所広司の存在感が突出していた第1篇に比べ、きっちりとした群像劇になっている。暴対法施行が迫る平成3年という時代をよく映し、東映実録路線へのオマージュとしても説得力をもった。悪役の鈴木亮平がとにかく怖ろしく、松坂桃李、村上虹郎も好演。暴力や出自の問題から目をそらさない白石和彌監督の腹のくくり方が伝わる。
入江悠監督の映画のリアリティーはつくづく不思議なリアリティーだ。移民排斥も公文書改ざんもデータ争奪戦もほとんど戯画的、半ば荒唐無稽に描かれるが、その場に漂うゆるゆるとした空気がえらく生々しい。市職員や自警団の悪意のないニヤニヤ笑いとか、目立たない娘が庭で一人でやる体操とか。ああ、これがあの送電線があるサイタマの町の空気なのだ。そしてそれは今の日本のあらゆる社会の隅々にまで満ち満ちた同調圧力であり、そこからのささやかにして断固たる逸脱なのだ。