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小川未祐の“スクリーンジェニック”な魅力を余すところなく捉えており、彼女のプロモーション作品として最高の仕上がりだ。夏の風景、子役ではない子供たち、少女と大人の間で揺れるヒロインを、山崎裕が撮影すれば当然の仕上がりの、その先へと到達している。わかりやすい事件ではなく、当事者にとってはその後の人生を大きく左右する出来事を、確かな演出力でさりげなく丁寧に描く。金魚のモチーフの使い方も上手い。過去の事件を絡めての社会派の色付けは中途半端だった。
「異色サスペンスの傑作」という宣伝文句は風呂敷を広げすぎだろう。一本の小説を軸に、事実とフィクションが境界線を行き来して、ラストで驚かせるという狙いと意欲はわかる。しかし、この作品の中で小説のネタとなるエピソードが弱く、それを基にした小説の文章もクオリティが低い。ポスプロの問題なのか、聴き取れないセリフや、暗すぎて読み取れない画が多く、映画体験としてストレスフルだった。劇中の小説家に頭でっかちな御託を代弁させる前に、まずは基礎を大切に。
「おじさんの天使」というモチーフが独特だが、インパクト狙いの嫌らしさがなく、キャラクター造形やシナリオ、そして監督が映画を作る理由にも繋がっている。あの時期に日本から最少人数で韓国へ出向いて撮ったことにも、必然性がある。「相互理解」というテーマは真摯だが、ディスコミュニケーションを受け入れた上での友愛が、映画に羽根を生やしている。忘れ去られる映画の方が圧倒的に多い中、この作品は「おじさんの天使が出てくる映画」として、記憶に残り続けるだろう。
題材となった恋愛ゲームアプリや主題歌を歌うボーカルユニット、出演俳優などを推す人たちに向けたファンムービーとして手堅く成立している。ファン層に届けたいメッセージをセリフで語りすぎているきらいはあるが、その内容に異論なし。クライマックスを盛り上げるために、己の愚行に対する報いを乗り越えてせっかく成長した主人公に、仕事の大失敗を徹夜でフォローしてくれた同僚へのお礼の朝食を放り投げさせた描写が納得いかない。その愚行にも報いがあるべき。
淡水魚の金魚は、海に放つと死んでしまう。少女はそれをわかってそうするんだろうか。それとも、そうとは知らずに鉢から解放してやったのか。前者なら何故そうするか意味がわからないし、後者なら少女はあまりにも幼い。児童養護施設で小さな子供たちの世話もする彼女が、そんな幼稚な子とはとても思えない。等々何か言いがかりをつけているようで申し訳ないが、この映画が好きなだけに余計にあのシーンに割り切れないものを感じたのだ。小川未祐がいい。それだけで見る価値はある。
何がやりたかったんだろう。男と女の三角関係のもつれ? 虚と実との微妙な間合い? 嫌らしいことを承知であえて伊丹万作を引用する。「テーマを絞れ。ストーリーは形ある短いものにせよ。人物は彫れるだけ彫れ」。則して言えば、テーマが何かわからず、ストーリーは迷走し、人物はただのデッサン。大の男二人をのめり込ませるヨーコにいったいどんな魅力があるのだろう。解放の70年代には、「ビッチ」な女性がよく出てきたが、彼女たちの心の奥まで映画は見せくれた。
石井裕也は頼もしい。失敗作と言われるものでさえ、一定の満足感を確実に与えてくれる。それは石井の映画に対するものすごくまっとうな取り組み方によるものだと思う。そのことは彼の著書『映画演出・個人的研究課題』を読むとよくわかる。もの作りへの向き合い方がとても真摯なのだ。もちろんこの映画は失敗作ではない。軽そうで重そうで、緊迫しながら弛緩もする。とてもいい匙加減。日本と韓国の俳優たちのそれぞれのキャラクターが泣かせる。人間の味がひしひしと伝わってくる。
運転免許証の更新に行くと、講習でビデオを見せられるが、この映画はそれと見紛うばかりである。また映画が撮れなくて、身過ぎ世過ぎで企業PR映画を撮っていた知人の監督がいたが、それを連想してしまう。教科書を丸暗記した上で試験問題に答えた満点の答案や入学式での無難な来賓挨拶等々、世の中には特に気にかけることもなく、かといって目くじらを立てるほどのこともない事象がいくつもあるが、それが劇場にかかるとしたらどうなるのだ!? お金を取っているんですぞ!
児童養護施設の高校生と小学生の二人の少女の物語だが、高校生が小学生を気に掛ける根拠が曖昧。母に対する感情が鍵となるのは分かるが、それぞれに違っていて共通項があまり見いだせない。毒入りカレー事件をモチーフとする意義も不明。最後に海に金魚を放つ行為も解放という積極的な行為なのか、殺すというネガティヴな行為なのかはっきりしない(殺すにしても過去との決別という前向きな行為であることは確かだが)。丁寧に演出され好感持てるだけにもっと磨きをかけて欲しかった。
小説家が従妹から聞いた話を小説にするが、その話は嘘か本当か曖昧、さらに小説家の想像、従妹の話を疑う小説家の彼女の妄想も入り交じり全てが虚実皮膜の境に、との狙いは分かるが、話、想像、妄想、どれも真か偽かで世界の見え方が180度変わるほどの深みはなし、本当にも幻想にも見えるだけの語りの技量は愚か熱量にも欠け、加えて小説家が、嘘でも本当でも、そこに感じられる感情こそ大事と(映画作家のものでもあろう)創作理念を声高に語りだすに至っては、観客は鼻白むのみだ。
その待機中に「生きちゃった」が、その体験を経て、母について直接的に語る「茜色」が生まれた契機となった作品。切迫し、悲壮感のある二作と違い、穏やかな肯定感に溢れた作品となっている。変人と思われながらも真っ当な、すぐそこにいる人こそが天使である、そのことは前二作にも述べられている通りで、今回のような形で視覚化されるべきなのかという疑問は残るにせよ、日韓のディスコミュニケーションがそのままコミュニケーションに転化する奇跡の楽天性には感動を禁じ得ない。
恋愛ゲームアプリのキャラが現実世界に現れることでヒロインの人生を変える。とは言え現れたキャラとの恋愛関係になるわけではなく、彼がヒロインの現実世界における恋愛の参謀の立場(キャラがナポレオンというのもそこからか)というひねり方で、自分に自信のなかったヒロインの自分探しの話が実はメイン。アプリありきの企画を逆手に取り、アプリのベタに対する批判的距離感を取っているのはいいのだが、ヒロインの自分探しは結局紋切型で、安心なおとぎ話=ベタの枠を出ない。