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人間の文明支配の外で生きる野良犬たち。文明社会からの彼らへの網羅は、私達自身に対して罪悪感を伴った何物かを提起し続ける。これは犬ではなく、人間の本質に関する作品だ。人間の本能とは一体どこにあるのか。進歩せざるを得ないことが人間の本能だというのなら、立ち止まり自らを去勢をしてしまう人間の意志とは。文明を持ってしまった人間。機能を喪失し骨組だけとなった廃車のなんと美しく崇高なことか。美しい映像で綴る犬のエレジーを通して人間の哀しい翳が炙り出される。
語り直しによる治癒効果。過去/現在/未来は一方向に流れるものでもなく、過去の出来事は固定されたものではなく、何度も語り直し救済することができる。また現在の私たちは未来からすでに影響を受けている。そんな哲学を等身大の人間を通して語ってみせる。ベル・エポック=良き時代という名を持つ1970年代のカフェは、ベル・エポック時代を憧れて名付けられたはずだ。過去は実際には触れることのない憧憬の時空間だが、そこを語り直すことで未来への足掛かりにもなる。
アルトマン「プレタポルテ」を彷彿させる空虚な豪華さ。コンパネ製の闘技場。ギリシャ神話やリチャード三世の歴史と同様に、現代を生きる親子の運命もまた何度も変奏させる。富める者と搾取される者との構図は、終わりない人間の業か。善悪未分化で冷静ギリギリのウィンターボトム。フーコーはギリシャ悲劇自体が裁判のイミテーションで、アゴーン(闘技)から、裁判/演劇/政治の繋がりを導いた。闘技場を裁判に見立て、断罪させる結末。鑑賞者の我々をも裁判にかけているよう。
ビリー・アイリッシュ入門者には一見、最適な情報の星雲に見えるが、ネットフリックスなどのドキュメンタリー番組同様、こちらもモキュメンタリー要素を感じる。ある種プロモーション作品だ。しかし、実家の兄の部屋やホテルでのレコーディング場面での彼女のウィスパーボイスやライブ映像は紛れもなく本物。神がかった歌唱力を見せつける。傷ついた現代社会には治癒効果のある彼女の歌声は必要なのだろうし、現代の核家族の在り方、子育ての事例もある意味参考になるのかもしれない。
原題でもある「宇宙犬」は幻想的なモンタージュだけ、正味は野良犬を被写体にしたダイレクトシネマ(観察映画)。何も考えてないかのような犬に無言でカメラを向け続けるかなり攻めた映像だ。都市住民たる野良犬はグータラ寝てばかりで餌をねだって半端に人間に媚びる姿が情けなく、そこに観客は自己投影できるし(俺だけ?)、宇宙旅行の栄光と現在の堕落の対比は文明批評的。そんな構成がただのワン公観察を真っ当な映画表現たらしめ、意外な完成度に啞然。動物だって人間だ。
タイムスリップし青春を再体験する日本映画なら甘口ファンタジーでやりそうなテーマを、撮影所を使った個人向けリアリティショー・ビジネスに置き換えた発想はやられた感。映画の高級感を優先したせいで現実のサービスとしてはコスト度外視に見えるが、誰が役者、どの場面が虚構か曖昧になるミステリ風味も凝ってるし、フレンチ・ノワールの名優競演で男性客も楽しめる。仕掛けの密度維持のため登場人物を類型化せざるをえなかったのと、終盤の展開が毎度おなじみなのが決定的弱み。
40代はキレキレだったのに50歳過ぎたらルーティンなコメディ屋になり下がった印象のウィンターボトム監督。今度こそはと淡い期待をもって見始めた本作もどこかで見た奇人社長盛衰記を超える内容ではなかった。なまじ途上国の低賃金や難民問題を訴えても本作レベルじゃ観客はファストファッションを無反省に買い続けるだろうし、皮肉にも映画自体が浪費の一端にさえ見える。ただこの軽快かつ嫌味なタッチでコロナ下の東京五輪騒動を黒い喜劇にして撮れないかと意地悪な夢想も。
すでに2月からAppleTV+で配信されている作品だが、彼女の曲を知らない私のようなオッサンが初見で映画に入り込むのは難しかった。動画を視聴したファンがさらに大勢で見て体験共有、感動を増幅するための劇場公開という気配が濃く疎外感も。アウトサイダーな生い立ちや、メジャースタジオのプッシュがなくネットの自律的拡散でスターダムに昇りつめた現代的なタレントは伝わるが、人気を支えるシステム=音楽産業側の描写を回避した構成は私好みなゴシップ的旨味に欠けた。
今まで映画を観てきた人生の中で、もっとも正視に耐えない作品だった。元々宇宙恐怖症気味で、ライカの話はあまりにゾッとするので耳を塞ぐようにしてきたせいもある。冒頭の燃え上がったライカが綺麗な抽象画のようになる悪趣味さや、無垢な犬たちが宇宙飛行実験に使われるアーカイブにも震えあがってしまった。猫が犬に嚙み殺される映像を使う、観客をリアルな死と向き合わせるアートドキュメンタリーらしい趣向も、そんな瞬間を撮れたクルーは幸運だと思うが、観たくはない。
遊び心に溢れた作品だが、非現実的で地に足がついていない居心地の悪さも覚える。設定が大がかりすぎて、オリジナルルールのゲームとしてあり得ないため、砂上の楼閣を眺めているようだ。こういった社会性をまったく排した恋愛劇を撮るのも、昨今はフランスか日本くらいでは……。大人が無邪気に楽しめる世界観ではないだろう。ギヨーム・カネ演じるディレクター男性のモラハラぶりも不快。周囲から引かれるほど女性を抑圧しているのに、あのラストは前時代的な幸福観だ。
誕生日パーティーの数日間をメインの時間軸にしつつ、ギラついた男の一代記のような込み入った構成はかなり成功している。主演のスティーヴ・クーガンに、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」のディカプリオのような愛嬌がないのも、ある種クライマックスの伏線といえるだろう。移民問題は皮肉が効いているが、ファストファッションが他国の安い労働力で成り立っている搾取については、もっと物語と絡めるべき。喧噪の中の人々がコロシアムに集約されていくダイナミックさは痛快。
チックなどの病を抱えホームスクールで勉強をしてきたこと、ジャスティン・ビーバーの熱烈なファンなこと、一時期は心を病んでリストカットしていた等々、ビリーは意外なほどカメラの前にわが身をさらけ出す。ティーンのミュージシャンのドラマチックな要素を、ことごとく身に備えているのだから売れるのも納得。母親が過干渉的にマネジメントも担当し、いつか親子関係のひずみを招きそうな予感もするが、そういった危うさがこぼれた瞬間を逃さず収めている撮影や編集が面白い。