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寡黙な主人公が行動するにつれて、そこにいない人物の名前が観客に知らされる。彼らと主人公との関係は? そもそも主人公が故郷に帰ってきた目的は? いくつもの疑問で観客の興味を持続させ、次第に人物相関図が出来上がり、帰郷の理由である「弟の死」が、相関図に暗い影を落とす。その手際が非常に鮮やか。地理的には狭い範囲内の物語だが、主人公がさすらうロードムービーのようなムードに永瀬正敏がよく似合う。地元のまつりをクライマックスに重ねたのは強引。
韓国の安東市、中国の上海、日本の東京。入り組んでいる場所と時代を、テロップや台詞で説明することなく、ストーリーの流れと色彩設計が利いたヴィジュアルで巧みに伝える。冒頭からのホラーめいた味付けで、主人公がなんらかの亡霊(=サバイバーズ・ギルト)に苛まれていることも匂わせる。自身に幸せが近づいてくるとそれを拒絶する主人公の心理はわかるが、そのたびに人を傷つけるのはありなのか? それでも愛してくれる王子様が迎えに来るラストでどっちらけてしまった。
「テーマはあるが、作り方が定まらない」と悩める監督が、手探りで映画を作っていく過程をそのまま見せるドキュメンタリー。観察者である監督が、映画の被写体(身体で表現する人たち)と映画作りについて話し合ううちに、視界が広がり、表現する側に取り込まれ、車椅子を手放す流れがミラクルだった。とはいえこれはラフスケッチのような状態なので、商業映画として評価するのは難しい。ラストのダンスシーンも長すぎる。これをベースにブラッシュアップできるはず。
近未来を題材にした日本のSF映画は、近未来的なデザインのガジェットや衣裳、CGやVFXで処理した「それっぽい」映像により、既視感に起因する安っぽい仕上がりになりがちだ。しかし本作は、生身の体や、今の日本に実在する物体にこだわり抜いた。その結果、作品のテーマやストーリー、未来に広がっているかもしれない景色が、観客にとって地続きのものに。お膳立ては成功したのに、永遠の命という大問題に対して決断を下す時の、主人公の心の描写が食い足りない。
何もかも重厚だ。重苦しいというのではない。何か居住まいを正しくして見なければいけないというような空気感が漂っている。監督の実体験をもとに作られたそうだが、それだけに一見なんでもないような場面が心に深く沁みてくる。個人的な話だが、監督と出身地が同じで、自分の家族に起きたことでこれに何か重なる部分もあり、とても他人事とは思えなかった。私的感情を交えてはいけないのに、どうしてもそれを禁じえない。それにしてもこの映画に集まった俳優たちの顔ぶれたるや!
静かな映画だ。題名にある通り、湖の底にゆったり揺蕩っているような静けさ。イラストレーターの韓国女性・空と出版社の編集者の日本人男性・望月。二人は自分の国に居場所を失い、上海で仕事を共にしている。互いに恋心を抱いているが、湖底にいるかのように目の前にいても互いの声、本当の心がくぐもって届かない。空の双子の弟の海という存在が、空の唯一の声となる。が、それも望月には届かない。共に家族を亡くした二人は、最後に何を見つけたのか。
電動車椅子に乗って撮影や録音のスタッフと打ち合わせ、全盲の俳優・美月めぐみさん、聾啞者通訳兼パフォーマーの佐沢静枝さん、振付家でありダンサーでもある砂連尾理さん等との自ら床に転がってパフォーマンスに参加する石田智哉監督の真摯な姿にまず心を動かされる。人間の飽くことのない創作に対する執念を垣間見た思いもした。だが、僕にはこの映画をどう見ていいのかわからない。テーマは何だったのか?モチーフは? 僕の鑑賞力に難があるのかもしれない。
アーク(円弧)という題名は何だろう。円が永遠の命だと仮定すると、円弧はそれに至らず終わるということなのか。ATG真っ盛りの70年代だったら、諸手をあげて賛同されたのでは? 何か懐かしさのようなものを感じてしまった。「生と死」というのは映画にとっても永遠のテーマである。答えが決して出ない最難関のテーマ。が、この映画を観るとそれにあっさりと答えを出してみせているような錯覚を覚えてしまう。が、困惑もする。生きている人間がもう既に死んでいるかのようなのだ。
アメリカから帰郷した写真家、彼が出会う人々からの断片的な情報から、彼が何らかの「事件」ゆえに帰郷したらしいことが分かってくるのだが、出てくる人が多くて全体が見えてくるのに時間がかかる。その事件は弟の死、それについて主人公は自責の念を抱いており、その自責からの解放がメインとなる割に、その死の意味が判然としないため解放にも根拠が見えない。実話が元らしいが、弟の孤絶の原因が最後まで不明ならば、それを前提に作劇すべきで、雰囲気での解放感演出は自己満足では。
内省的な絵描きの女性のもとに、どことなく不穏な雰囲気の双子の弟=妹が現れ、彼女の生活を攪乱する。正反対の性格を持ち、しかしお互いが無ければ成立しないモノクロ写真の黒と白や、取り替えられる二体のクマのぬいぐるみを巡る童話など、象徴的過ぎない象徴を使って二人の関係を現実と幻の曖昧な境位に置く語りは評価。しかし彼女が妹から解放されるのは新たな生=男を選び取ることによってであるべきではないか。彼女の内面で全て解決してしまって男の位置が弱化する作劇が残念。
舞踏の先生が、誰しもが面白い動きを持っていると述べ、監督自身も身障者は日常的コミュニケーションが表現と述べる。つまり身障者は誰でもが(もっと言えば人間誰もが)芸術家なのだと、存在と芸術を同地平で繋いでしまっており(ラストの素人即興ダンス?は芸術なのか)、その間のダイナミスムを考慮しない安易さには疑問を禁じ得ない。字幕と音声解説がデフォルトのようだが、健常者が見る分には、映像の全てが意味に還元された状態をずっと押しつけられる感じで、これも疑問がある。
不老不死となったことによって人間の生がどう変化したのかという思考実験かと思ったが、死ぬことを受け入れる男が現れ、生とは生きる意味のある時間のことなのだと知らしめるまで、ヒロインはただ長生きしているだけで何も考えていなかったとは。彼女も結局死を選ぶ(それも生きてきた経験を踏まえての選択ではあるのだが)のだから、不老不死の設定は無意味化し、元の木阿弥、弧どころか円ではないか。「スタイリッシュ」な映像美、一部モノクロ映像のギミックもこれみよがしで鼻につく。