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事前に入れてしまった「母親が息子を殺す」という情報が、プラスに働いた。3人の母親と、それぞれの10歳の息子「ユウ」の3本のストーリーが、不自然に絡ませられることなく同時に進んでいく。徐々に緊張感と不穏さを増していく力強さと手際の良さに巻き込まれ、誰が誰を殺したのかを観客に知らせるシーンのカット割りも巧みで鮮やか。映像の力を体感できるスリリングな力作だ。「悪魔」「サイコパス」担当の少年「ユウ」と母親の関係性の着地のさせ方は、エモに流れた印象。
地域に根づいたローカルテレビ局だから撮影できた、10年分の膨大な映像資料をもとに、震災の記録と記憶、そしてメッセージを後世に伝える貴重な作品。だが、奇跡の一本松、三陸鉄道の復興の軌跡、被災者を支えた旅館の女将、被災した人々の10年後など、複数の素材が散らかったままなのが残念。監督の視点やナレーション、ヴィジュアルデザインなど、なんらかのフックでこれらの素材を束ねて初めて「映画」として成立するのだと思う。津波が陸地を飲み込む映像は鑑賞注意。
流れ者の青年がオレオレ詐欺を仕掛け、文字通り老獪で食えない老婆に丸め込まれていく展開に期待値が上がったが、今と昔、若者と老人がざっくり対比されているだけで、まったく盛り上がらない。若者たちが、シャッター商店街が賑わっていた時代の映像の、上映会を企てる動機も謎。町おこし的な企画性が重視され、あちこちへの配慮がなされることで、映画にとって大切な「物語」がないがしろにされている。天草に行ってみたいとは思ったので、まんまと、ではあるが。
かつて父が自死した主人公が、要介護の毒母になじられ、男に裏切られ、親友が急死し、職を失い、追い詰められていく。風呂敷を広げに広げたところで、おいしいはちみつが、母と娘の長年にわたる確執を雪解けに導き、ぐしょぐしょに泣いて叫んだ女たちが、あははうふふと幸せそうに笑い合い、エンドロールへ。この映画には理屈がなく、感情しかない。資料を読んだら案の定、脚本の「余白」を演者に丸投げしたらしい。この内容にこのタイトル。製作者の女性観が透けて見える。
恐ろしい映画だ。家族には救いはどこにもない。ただ息が詰まるばかりだ。この映画は、そんな日本の今を象徴的に抉り出していると感じた。〈石橋ユウ〉という長男がいる三つの家族、奇しくも生活レベルは上中下。冒頭に描かれるそれぞれの家族の一見何もない平和な生活が早くも息苦しい。ユウやダメ夫や母の弟が起こす問題がむしろ風穴を開けたかのよう。希望の象徴にも思われる飛行機雲は今回の東京オリンピックの暗喩だろうか。前は五輪を描いたその雲が今はむなしく伸びている。
ドキュメンタリー映画にはどれほどの労苦が費されるのだろう。忍耐強く対象を見つめ、追い、膨大な汗と共に地道に時を重ねていく。十年という時の積み重ねが、〈生きる〉ということの荘厳な重みを我々の心に刻み込む。本当の意味の感動である。劇映画では決してできない貴重な営み。生々しい津波の映像もさることながら、津波を生き抜いたそれぞれの人たちの言葉の重み、悲嘆に暮れながらも懸命に探り当てようとする一縷の望み。そしてその人たちの十年後……。嗚呼、ここに人間がいる。
題名は忘れたが、もう随分前に同種の設定のNHKのドラマを見ていたく感動した覚えがある。最近では、『おばあちゃん ありがとう』という韓国の泣けるテレビドラマもあった。おいしい設定なのか、同種のものをいくつも見聞きした。オレオレ詐欺の青年と一人暮らしの老婆。町内放送でその詐欺に気をつけろと警告しているが、住民たちは老婆の孫と称する青年に警戒心すら抱かない。過疎の町なら、人間関係は却って濃密だろうに、孫がすでに死んでいるという話すら聞いてなかったのか。
美咲はつらい。40歳独身、母を介護しながらの学童保育所勤め。非正規だろう。結婚するつもりの男が既婚だとわかり、先方の家庭に乗り込むが泥棒に間違えられて警察に捕らわれる。ついてない。バカだったと唇を嚙むしかない。生きづらい女性たち。生きづらいのは男も同じだが、女性だと余計につらそうだ。雨の中ワインを飲みながら死んでいく養蜂家の親友の方が、幸せそうに見えてくる。しんどい映画なのに、むしろホッとする。かつては、こんなまっとうな映画がいっぱいあった。
同じ名前の息子を持つ三人の母親。上流家庭に入った専業主婦、仕事に復帰しようとする主婦、仕事を掛け持ちするシングルマザー。階級差、出産後の仕事復帰の困難、シングルマザーの貧困など、日本の女性が抱える問題が彼女らの描写を通して浮かび上がる構造。このうちの誰の息子が殺されるのかがサスペンスとなるが、どの子が殺されてもおかしくない、ということはどの子であったとしても映画の図に大きな変化はないと予測がついてしまい、サスペンスを大きく減じることになっている。
東日本大震災時の津波の映像、俯瞰で見る時の緩慢さと、海面間際で見る恐るべき速度の落差には現場の臨場感があり恐怖を覚える。震災直後にインタビューした人々とその十年後を比較するのが映画のメインとなるが、被害を受け止め、受け入れ(そこには断念も含まれる)、新たに踏み出す、そのためには物理的時間には還元しえない心理的時間がかかることをインタビュイーは示し、「復興」という抽象的な言葉の内側にある複雑な様相を露わにしてくれる。事実の持つ力を感じさせる映画。
オレオレ詐欺でやって来た男を孫として受け入れるおばあさん。案山子の顔に母親の顔を見出した人。観光の目玉として作られたマリア像。どれも「まやかし」なのだが、人にとって時にはそれも必要なのだとして映画は閉じられる。そのメッセージ自体に否はないのだが、しかしまやかしを必要とする人の心の飢えが描かれていないので、痛切なものとして感じられない。エピソード間のつながりは弱い、というか無いに等しく、何となくの雰囲気だけで話が進められており、食い足りない。
主人公の女性には呆れるほど次々と不幸が襲い掛かるのだが、重要な父の自死と親友の養蜂家の自死についてすら、前者については原因曖昧、後者は鬱の彼女に偶々かまっていられる状況ではなかったというだけ(フラッシュバックでの死の描写もあざとい)で、彼女の責任とは言えない。要するに彼女の不幸は内発的なものではないため、彼女がそれを克服するにしても、それは彼女が自分自身と闘う姿として見えず、為にする設定にしか見えないのだ。脚本段階での練り上げが圧倒的に不足。