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自分の曲に新しい命を吹き込む。自身の過去の楽曲のレコーディング風景から始まる本作は、他人の土地で他人の言葉を使って歌うことに疑問を呈するカリプソの女王の誕生秘話、そして先祖、アフリカ・ベナンまで遡行していく旅の物語である。日常の出来事や政治など、いま起きていることを歌という形で口頭伝承するカリプソ。そのリズムやシンコペーションは個人の感覚を超えた、身体に無意識に備わった先祖が経験してきた哀しさである。類共通の民族の移動と伝承を考えざるを得ない。
凄まじく豪華な俳優陣。小難しいものや大げさなアクション、回答が出ない社会派や法廷ものなど、食傷気味になりがちな昨今、一見バカバカしいエンタメのこのような作品があっても良いはずだ。現場は相当楽しかったはずで、そのことが伝わってくる。実は単純で複雑な家族関係。誰もが共感できるような最大公約数的な内容。そして何より映画の内容より、役者はどんなに大物になってもどんな仕事でも全力でこなすべきで、それは若い役者や映画関係者に大きな励ましにもなるだろう。
本が消失すれば歴史が消え人間が消える。多民族が住んで「文化の十字路」と呼ばれていたボスニア紛争時に、国会よりどこより最初に攻撃されたのが、国立図書館だった。オスマン時代の500年もの歴史が灰燼に帰した。ブックマーケットやオークション形態のネットによる変化や、メモやノート、エフェメラなど思考の過程など、およそ書籍やその執筆の思考過程における考察などが縦横無尽に展開していく。ボルヘス『砂の本』のように永遠に循環し増幅する世界。本とは身体論だ。
一家族の完全にプライベートな物語を大きな国家の歴史に照射する。個人が一度頭の中で描いた想いや思考や意思を、手紙や手記という形で文章化したものをさらに淡々と内省的に音読していく。そもそも手紙や手記とは内面を文字によって変換したもので、目に見えない感情を視覚化した感情の痕跡だ。現在のベルリンの街角や強制収容所、郊外の風景、そしてその場の自然音にモノローグが重ねられる。ドイツ・ゲルマンの見えない歴史そのものを、直接的な映像でなく、視覚化することに成功。
楽しい音楽ドキュメント。海と夏の日差し、そしてスカやソカやレゲエなど自然に体が揺れるカリブ音楽にのせ語られるカリプソ・ゴッドマザー一代記。パリ、NY、そしてベナンの奴隷港までたどり着く公演とルーツ探しの旅は70歳超とは思えないバイタリティ。ライブシーンもノリノリで映像中の聴衆のように映画館の観客も冷たいビールやカクテルを飲みながら見られれば良いのだが。「スティールパンの惑星」に次いで配給のトリニダード・トバゴ映画。この国の映画はもっと見たい。
デ・ニーロの好々爺は悪くない。むしろ今後は強面役をやめてずっとこのキャラでいい。その演技にはアウトロー男優が晩年に愛嬌ある役に転じて生ずる微笑ましさと安心感がある。それも一種の映画的快感だ。そして本作にはそれ以上の興味が湧かなかった。ベタなギャグにドリフや志村けんほど破壊力はなく、シーンごと状況を誇張する安っぽいBGMが重なり今どきの地上波テレビドラマ風で不快。まったく私好みじゃないが、低年齢性や無毒感が受けてヒットする可能性はあるんじゃないの。
希少古書は絵画や工芸品と違って外観だけでは骨董価値が分かりにくく、価値の丁寧な解説が必要になるが、その点を視覚化する演出を怠っており、なぜその本が数千万ドルもするのか理解が難しい。また古書籍商の世界の面白さは客の偏愛趣味と一体で成立するのに客側の描写も手薄だ。私が出版界にいて知人に収集家がいるための先入観かもしれないが、同じ業界なら日本の状況のほうが複雑かつ屈折し、広がりと多様性がある気がする。いずれにせよ大画面で見るほどでもなくテレビ向け。
祖父母の恋愛時代に遡る百年の家族史と自分史を低予算で映画化するとこの形になる。親族の手記を延々朗読する意図は分かるが、字幕をひたすら追い続ける老眼客はかなり難儀する。またモンタージュされる現在の風景映像までモノクロにする必然性は理解できず、芸術風に見えるからとの理由なら安直だ。余暇がたっぷりあり勿体ぶった芸術体験を求める人向けのインスタレーションと思えば納得しうる出来なので、映画ではなく実演方式にしたほうが観客も緊張し含意が明確に伝わったろう。
話題が散漫に登場し、まとまりに欠ける作品だ。性差別や性的虐待などの大きな問題や、アフロカリビアンが根本に抱えた人種差別の物語といった、テーマ性はそれぞれに重要なのに、映画は粘らず次から次へと話が移っていってしまう。大御所女性歌手を取り上げた作品では、「マ・レイニーのブラックボトム」のようなフィクションの方が、テーマの焦点を絞り自由に語れるようだ。本人登場によって気を使い、切り込みができなくなり撮れた素材だけをつないだのではと勘繰りたくなる。
ギャグが80年代のコメディ映画のような幼稚さ、古さ。ロバート・デ・ニーロは時々こういった映画に出るが、質も問わないワーカホリックなのかと思う。たわいない理由で孫と家庭内戦争を始める祖父という、大人が子どもをあやす前提にしてもベタなドタバタすぎて冷めてしまう。デ・ニーロが妻を亡くしたばかりという設定も効果をあげていない。「ディア・ハンター」のデ・ニーロとクリストファー・ウォーケンの記憶を汚さないでほしいと思うし、ウォーケンの怪演のさせ方も安易。
古書の売買や個人書店といえば癖が強そうなわりに、いまいち薄味で深部に辿り着かない物足りなさがある。インタビュイーの活動履歴や由来を語らないのは、ネットフリックスのドキュメントでもよく見かける手法なのだが、流行なのだろうか。作り手に欲がなく、経済的背景などの下世話な話題では立ち止まらないお上品さ。希覯本の話で思うのは、結局のところ古書店は中継地点でしかなく、とり憑かれたコレクターとは一線を画すことだ。全体にほどほどクールでありつつ凝ってはいない。
いかにも最近の意欲作らしい、長尺の白黒、同じような風景を連続してつないだ演出は、観客に忍耐を強いる芸術映画の「やったるで!」感が溢れている。けれども監督が朗読する手紙や日記の内容が、興味を駆り立てるので思ったほど長さや苦痛は感じない。カメラはフィックスが多いものの、ハイスピードなど手法や変化が凝らされている。編集も意外にあっさりと切り替わるので刺激は続く。壮絶な時期を過ごした背景もあるが、非常に文化的、政治的な一族で、家族史としてサマになる。