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俳優のパブリックイメージを正しく利用したモキュメンタリー。これだけ名前の通った俳優100人のスケジュールを確保し、連続ドラマと映画を(おそらく)並行して撮影した制作サイドの有能さは称賛されるべき。「銀河鉄道の夜」的な劇中劇に絡めて、撮影スタジオを車両に見立て、芝居には答えも終わりもないから旅をし続けるという、俳優のロマンや業を映し出すオチも染みる。祭りが生者と死者が触れ合う場所であるならば、このお祭り映画は、一足先に星になったあの人への餞だ。
成田凌が演じる吉尾がわりと早い段階で幽霊だと判明し、その意外性にワクワクした。その後、高校時代から始まるいくつかの回想シーンから、男子6人の関係性や吉尾の死にまつわる経緯が、徐々に明らかになっていく。現在時制で彼らは言い争いになるのだが、その感情や理由がいまひとつ伝わってこない。ノスタルジー系チーム男子映画特有の閉鎖的な空気感のせいか、街角で見かける他人事のよう。前田敦子が演じるミキエが彼らを喝破して、観客との架け橋になってはいるが。
ジャック・ケルアックの『路上』Tシャツを着た80歳のカメラマンが、東京のあちこちでスナップを撮りまくる。その姿と彼の写真に重ねるように何度もインサートされるのは、彼の代表作でありポートレートとされている、野良犬のモノクロ写真。70年代のスランプを脱してから「考えるのを止めた」森山の本能的な写真術の本質に、ジャズやラテンなど様々なジャンルの血湧き肉躍る楽曲が最高にフィットしている。自宅でのオンライン試聴中に、いつの間にか踊りだしていた。
代表に漏れた仲間のウェアを身につけて団体戦に挑んだ原田選手など、実話に基づく描写が強い。テストジャンパーという裏方に焦点を当てた着眼点も良い。CGによる吹雪も大迫力。だが、あるテストジャンパーの「オリンピックに関わりたい」という利己的な動機が、「日本の金メダルのため」という全体の目的にすり替えられ、テストジャンパーたちの安全のために下された決断が翻される、決死隊的展開を美談に仕立てていて啞然。森喜朗的思考回路をタイトルが的確に表している。
高視聴率を上げていたテレビドラマを映画にしたいと申し出たことがあった。が、それを書いていた超大物脚本家は「あれはテレビで只で視せる代物。映画なんておこがましい限りです」と言って映画化を断った。「奇跡が降る街」という米映画は、バイプレーヤーばかりを集めて作った得も言われぬ傑作だった。いずれも本物のプロフェッショナルなのだ。この映画を観ていると悲しくなってくる。集められた役者たちが気の毒である。映画というよりまるで同窓会。そこで余興をやらされている?
車とか家電とか農産物のように映画だって品質というものがあるはずである。ここのところの日本映画の品質の低下は取り返しがつかないところまできているという気がして仕方ない。絶望である。心の底に深い絶望を抱えた日本の若者は、意味もなくへらへらと空騒ぎするしかないのだ。この映画はそういう若者たちを描いている。笑えない。フェイクのつもりが、見え見えである。こんなことしていていいのだろうか。お隣の国の映画が目覚ましい躍進を遂げているというのに。
森山大道さんは『On the Road』と描かれたTシャツを着て、カメラをぶら下げ街を歩く。そしていい被写体に出会うと、挨拶するみたいにカメラに収める。ジャック・ケルアックの小説『On the Road』=『路上』はヒッピー世代のバイブルで、映画にもなった。写真はブレていたりピンボケだったりするが、「写りゃいいんだ」と森山さんは気にもしない。ニエプスという発明家が撮った最古の写真が森山さんの魂に深く根を下ろしている。「光と影、それだけで十分だ」。
これが実話でなかったら、出来過ぎだとそっぽを向かれるかもしれない。もちろん実話そのものではあり得ず、随所に脚色が施されているだろうが、やはり実話は強い。なぜみんなもっと実話をやらないのかといつも思っていた。長野オリンピックをオンタイムで体験した人にもそうでない人にも等しく共感を呼ぶと思う。負け組が奮闘する話だからだ。話の展開は骨太で王道を行っているし、随所にクライマックスに至る伏線が張られていて、セオリーに忠実である。少なくとも見て損はない。
映画撮影が主軸となるが、その映画が何のために撮られているのか不明なため、その実現に向けて皆が一致団結という流れに説得力がない。外資のスタジオ買収という背景も大した意味はない。ただ脇役の人大勢で映画を作るというアイデアだけが根拠で、それでも話に曲折があり、俳優たちの群像劇になればいいが、ただ知った顔が、どこかで見たようなドラマ現場に現れ続けるだけの平板さ。100人出演と言うが、その100人の数合わせに引き出された脇役たちに対しても失礼な映画だと思う。
結婚披露宴に出席した男たちが3時間後の二次会までの時間を持て余し、その宙づりの時間に死んだ仲間の一人と過ごした日々を回想する。特徴的なのはその死んだ仲間が皆の一人としてずっと一緒にいる点で、死んでいるのかいないのかの曖昧さが宙づりの時間と見合っている。開始70分のグダグダした時間、下らない会話はいいのだが、ではこの死者を最終的にどう始末するのか、つまり死者がいることの意味が問われると途端に映画は崩れだす。一番大事な筈の最後の20分が一番弱い。
ボケ、ブレで粒子を際立たせたり、ネガフレーム自体を表現に持ち込んだり、フィルムの物質性を露呈させる作風から、「光と影」という写真の根本に帰還し、被写体(街)との出会い=撮る行為そのものを写真とみなすあり方へ。この変化にはフィルムからデジタルへという媒体の転換が関わっているだろう。とするならば、本作でもう一つの軸となる写真集製作の、紙の物質性への拘泥はもはや森山にとって反動でしかないとも見える。その矛盾をどう考えるべきかもう少し突き詰めて欲しい。
長野オリンピックの際のテストジャンパーの役割を初めて知ったが、彼ら故に金メダルが獲れたかのような美談仕立てには若干の違和感がある。悪天候で危険にもかかわらず彼らを飛ばせて競技再開(ひいては日本の逆転)を狙う日本の競技関係者と、日本の為と自ら飛んだテストジャンパー、彼らには当然無関心、結果=メダル(しかも2位では駄目)にしか興味のない観客を見ると、競技を国の順位闘争に貶めるようなオリンピックのあり様自体そもそも見直すべきとの考えを新たにする。