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オウム真理教(=麻原彰晃)に人生を狂わされた二人の男の異色ロードムービー。共通のルーツである丹波や、母校の京都大学などを訪ねながら、監督が荒木に様々な問いを投げかける。時間と言葉を尽くした結果、少しだけ心を開いた荒木が、入信から出家までの心の変化を語る。それは、教団がいかにして、純粋な若者を現世に絶望させるかという、洗脳の核心に触れた貴重な証言。二人の思い出話として語られる、カルトの勧誘活動に対する当時の京大のおおらかさに絶句。
佐々木蔵之介が、解説や説明をするナレーションではなく、映像や音声が残っていない島田の「声」を担っているのが面白い。佐々木の声で語られるのは、島田が手紙などに残した文章や、他者の手記や日記に綴られた島田の発言。島田のポートレートを繰り返し映すことで、容貌の違う役者が演じるよりも、島田の本質が伝わる効果を生んでいた。力作だが、島田叡という人物を通しての現政権への問題提起としても、狂った日本社会を「生きろ」というメッセージとしても、回りくどい。
大手出版社内での、保守派と改革派の内部抗争物語。キャラクター間での騙し合いと、観客を驚かせる仕掛けを、無理なく成立させている脚本がスマートだ。無駄にトリッキーな編集をしなくても、ミステリ映画を作れることも証明している。現代日本を批判し、まさかのジャイアントキリングで希望を願う、映画的なラストも良い。残念なのは、「この俳優がこの役ということは……」という、捻くれた予感が裏切られなかったこと。有名俳優を並べてミステリを作るのって難しい。
会社をクビになった40歳の監督の惑いと、23歳の格闘家の自分探しが、シンクロしながら進んでいく。事前に設定したテーマはなく、ラウェイという格闘技に魅せられた人々や、魑魅魍魎が跋扈する興行の世界にこわごわ迫った結果、最初は一人だった主人公が、出口では二人に増えている。被写体も作品も、迷子になっている姿を取り繕おうとしない青臭さが、完成度という尺度を突っぱね、私小説のような魅力を放つ。監督に被写体を利用する意図がないドキュメンタリーは清々しい。
監督のさかはらさんとインタビュイーのオーム真理教(現アレフ)の広報部長の荒木さんは奇しくも共に京大を出ていて、出身も同じ丹波だという。それがサリン事件の被害者と加害者側の人間として、この映画で対峙している。荒木さんは直接サリンを撒いたわけではないが、今は教団の顔といった存在であるから、“事件に責任を感じている”と思いきや、事件を背負いきれず、戸惑うばかりのようだった。二人の微妙な心の交流を掬い取れるか否か、見る人のあの事件への思いが左右する。
日本には奴隷制がなかったと自慢気に語る人がいるが、沖縄戦の様相を見ると、日本という国が国民を奴隷以下に扱っていたことがよくわかる。「日本軍は国は守っても国民は守らない」。国民がいてこその国なのに、それを捨て駒扱いするということは愛国心の欠如と言うしかない。こんな考え方を国ぐるみで平然としてきた戦前日本は世界でも稀な異常な国だったのだろう。至極まともで健全だった県知事・島田叡と無辜の沖縄県民が無残な死に至ったのは、あの日本にあっては必然だったか。
本屋で大泉洋の写真が表紙の原作本をよく見かけたが、なるほど大泉あてがきの小説だったらしい。原作がいいのか、脚本が良かったのか、文句なく楽しめる映画だ。演出のキレもいいし、心地よいテンポが何よりいい。人に見せるということを片時も忘れず、隅々に至るまで目が配られている。日本の映画ではコンゲームものは難しいと思っていたが、その考えを安々と裏切ってくれた。大泉が取り組んでいる雑誌の編集を見ていると、日本映画もこんな風ならいいのにと思った。
格闘技オンチの僕は、“ラウェイ”というミャンマーの伝統格闘技のことはまったく知らなかった。拳にはグローブをつけずバンデージのみを着けて殴り合う。蹴り、頭突き、金的もOK。「世界で一番残酷な格闘技」。ほとんど喧嘩、いや下手をすると殺し合いである。このラウェイになぜ日本の若者が挑むのか、わからない。が、観ているうちにわかってくる。金や名誉のためじゃない。かれらは己と闘っているのだ。だから、「大切なのは勝ち負けではなく、続けること」なのだ。
地下鉄サリン事件の被害者である監督が、アレフ広報である荒木氏と対話を重ねる。糾弾するというより、なぜオウム=麻原であり、その信仰を維持するのか、事件にどう責任を感じているのかを知ろうとする。「出家」に拘泥して現世との絆を断ち、閉じこもろうとする荒木氏を、監督は自分の家族、荒木氏自身の家族と会わせることで外に引き出す。結局引き出せたのは一端の責任感、負い目の感情で、謝罪ではないが。観察=分析するドキュメンタリーというよりコミットするドキュメンタリー。
「軍民官一体」の標語の下、本土以上に徹底した形で総力戦を強いられた沖縄で、県知事の立場にあり軍と板挟みになりながら沖縄県民を極力守ろうとした島田の姿を軸に、国を守っても民衆は守らない、本土防衛の砦として沖縄を利用した日本という国家の姿が明らかにされる。本土の人間として、沖縄県民の幸福を願った島田のあり様は、沖縄を考える我々自身のひな形とも見なしうる、というかそうすべき。文書や証言を渉猟しているが、内容に比して若干長い。もう少しコンパクトで良い。
老舗出版社内部で起こる権力闘争のシーソーゲームだが、その主な舞台は社の看板である由緒正しき文芸雑誌と、新興カルチャー誌。後者がいかにアイデアで戦ってゆくかが見どころとなる。権力闘争とは言え、主演の大泉、松岡のキャラのおかげもあり、『半沢直樹』などと違ってネチネチしておらず、陽性なのが救い。闘争は、出版不況における出版社の在り方にまで拡大、ただこれは問題提起的ではあるが深くはない。敵役文芸誌側が伝統に依りかかるだけ、敵としてもう少し強くても。
KO以外の判定勝ちがない、ランキングも、チャンピオンの防衛戦もない。最後までリングに立っていれば両者とも勇者として称えられるというミャンマーの格闘技ラウェイは、ルールの上に立っての勝ち負けが問題となるスポーツという以上に、ルールなき人生の方に一層近いように見える。神聖な競技とされるのはそのためなのだろうが、それに懸けた日本人競技者を「迷子」とするタイトルは、ラウェイをルール無用の過激さゆえにいかがわしいものと見なすバイアスに準じるかに見えて残念。