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台湾の高校を舞台にしたこの映画は、自殺らしい女子生徒の死を三人の男子生徒が目撃する場面から始まる。三人はことばを交すのは初めてという仲だが、そのひとりが少女の死をめぐって自己劇化を計り、自分のさびしさから逃れるため周囲につながりを求めていこうとする。それは〈甘え〉だろうが、はた迷惑なその騒ぎをひとつの〈青春〉として映画は提出しようとする。そう描かざるを得ない現実が反映されているらしいが、日本も同様なのか。死を急ぐ若者たちを見るのはつらい。
今年はこれで二本の優れた〈西部劇〉が公開されることになる。デンマークのK・レヴリング監督の「悪党に粛清を」と、このオーストラリアの監督作品で、どちらも撮影場所はアメリカではない。「世界経済が崩壊して十年後のオーストラリア」という設定で、荒れた風景のなかに建物が点在し、自動車がなければなにもできない。その車のなかで思案にくれる男の顔から始まるこの映画の登場人物もセリフも極端に少ないが、「マッドマックス」の新作よりこちらを選ぶ観客もいるだろう。
アニメーションの世界では、さまざまなふしぎ生物が登場し、人間の目とは違った視点から地球の歴史を空想することも自由で、この作品もそのひとつだが、今後も〈新発見〉が続くことでありましょう。恐竜と人間が共存した時代は実際にはないのだが、映画ではしばしば描かれ、ミニオンズたちも恐竜時代から存在し、いまなにをしているかというと、女性の悪役に従って英国女王の王冠を手にいれようとする騒動に巻きこまれる。その部分のイギリス的な感覚とユーモアに大笑いしてしまった。
スコットランドの都市と自然を背景としたこの音楽青春映画は、すばらしくやわらかで優しい感覚に満ち観客を包みこんでしまう。プールの監視人である青年と、歌が好きでバンドを組みたいと願う性格と状況の違うふたりの女性をめぐるドラマはゆるやかなもので、なによりも音楽がさきにある映画だということは出だしから明白だ。三人組がトム・ソーヤー気どりでカヤックで川下りをする場面は美しい。十年かけて製作された映画の自然な軽やかさもいい。ずっと見ていたくなる秀作。
台湾の青春映画には懐かしい匂いが漂っていて、ノスタルジックな気持ちになることが多い。白シャツの制服のせいか。初夏の陽射しのせいか。そんなまばゆさを残しつつ、この映画の舞台は現代。ソーシャルネットワークをひとつの鍵として、ますます複雑になっていく思春期のダークサイドを覗き込む。面白いのは、物語に軸の登場人物がいないこと。群像劇といえばそれまでだが、見えない〝連鎖〟が子どもたちの呪いにも救いにもなりうる不可思議を、力ある映像美で描き切ったのはさすが。
世界の経済崩壊から10年。無法者たちの巣窟となったオーストラリアの大地を背に、傷を負った男たちの物語が繰り広げられる。もうひとつの「マッドマックス」。確かに。でもこちらはアクションの醍醐味をスペクタクルに見せる映画ではなく、じくじくと人間の罪意識や悲しみに迫っていくもの。正直、演出に勿体ぶった印象はあるけれど。捨て犬のようなロバート・パティンソンがすごくいい。アルゼンチン出身の女性撮影監督ナターシャ・ブライエが、男たちの艶をしかととらえている。
人類の誕生前から存在したミニオンズ。「怪盗グルー」シリーズの人気キャラクターたちが主役となり、1968年を舞台に大活躍する。この年代からもわかるように、いろんな名ポップスが流れ、英国女王も出てくるロンドンのシーンなど、非常に楽しい。当時の何でもありっぽい世界観も、アニメーションの創造性の自由さにフィットしていて抜群の相性。今年になって、カメ、カエル、クジラが巨大化して暴れる映画を観たが、こちらも例にもれず。ミニ目線のローアングルも刺激的です。
「JUNO/ジュノ」にも楽曲を提供している、ベルセバのスチュアート・マードックの初監督作。音楽と映画の融合は、もはや珍しくないけれど、物語もヴィジュアルもメロディも、こんなにキュートに楽しく滑らかに溶け合ったものは、私は初めての体験。最初、ヒロインは心身を病んでいるが、音楽や友情を通して少しずつ大人になっていく。妄想と憧れいっぱいの音楽女子が、外界に旅立つまでのほろにがな青春映画。ポップなのに、ディープなところに触れてくる。ずっと大切にしたい。
SNSによる悪意の氾濫、という進行形の社会的現実にはいまひとつせまれていない。前作「光にふれる」を見ればわかるように、この監督は悪意よりも青春のきらめきに魅せられてしまった人なのであり、その感性がこの映画をはんぱなものにしている。死は、いじめは、あんなにきれいなものではないはずだ。ホウ・シャオシェンを彷彿とさせる縦の構図は洗練されているけれど、前作の終盤に置かれたカットバックの、あのあきれるほどの愚直さにこの監督の美質はたしかにあったと思う。
静かなマッドマックス。などと評してはたぶんいけない。どちらも自動車を馬に見立てた一種の西部劇だといえるが、そのじつ開拓すべき西部はそこに存在しない。合衆国がフロンティアを宇宙空間にもとめえたのとは異なり、その国では見放された土地が裸形の肌をさらすばかりだ。法なき場所の「作法」は主人公を律する最後の法であり、ガイ・ピアースとロバート・パティンソンのそのたたずまいが良い。この監督は、前作と本作でオーストラリアの赤い土から現代のその先を見ている。
人類史の一万年を異生物の目から相対化し解体する、ファミリー向けに見せかけた知的野心作、ではまったくなかった。六〇年代から七〇年代の英米がなぜかメインの舞台とあって、ウォーホルやビートルズなどへのオマージュを多数配置、劇場に子どもを連れていった大人たちがクスリとできる「妖怪ウォッチ」的配慮がゆきとどいている、わけでもない。ミニオンはキモかわいいけど、お話はよくわからないし、活劇的展開もなんだか味気なくてずいぶん退屈した。ちなみに2D版で見た。
ごめんなさい、これはギブアップ。見つづけていられない。音楽をきっかけにガール・ミーツ・ボーイ、はいいんだけど、主人公のエミリー・ブラウニングが心療内科(精神科ではない)に入院を要するほどの重篤な患者にはまるで見えず、ほとんどファッションになっているのが理解できない。不快である。ベル・アンド・セバスチャンにも興味がもてないし、エミリーのバスタイムに草食系ボーイのオリー・アレクサンデルが歌う『きみの身体を洗いたい』でもう無理。観客に神のご加護を。