パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
監督と友人のまあちゃんが、アスペルガー症候群であるまあちゃんを知ろうとするうちに、いつしか監督は自分に向き合い、観客は他者の理解と受容について考えさせられる仕組みになっている。2人のコミュニケーションの齟齬にハラハラするも、毎回監督の家の玄関をまあちゃんが笑顔で開けるショットでリスタート。何度も切り取られるこの玄関のショットが、人間関係の真理を捉え、映像に独特のリズムを与えている。2人の日記から抜粋した手書きの文字もチャーミングな彩りに。
4人の監督による連作長篇をトータルで評価するのは難しいが、映画業界への愚痴をぐだぐだと垂れ流す最終章が、全体をぶち壊していることは間違いない。主人公が売れない女優の蒲田マチ子で、舞台が蒲田という最低限の設定くらいは守ってほしかった。夢を追うマチ子が女友達と休日を過ごして人生に惑う「第2番」(マチ子の友人を演じる伊藤沙莉の切れの良い咆哮をのらりくらりと煙に巻く山本剛史との言い争いはちょっと別格)と、me too 映画の「第3番」は評価したい。
「家族とは何か」「写真の力」といったテーマと、「写真洗浄」というドラマにおけるフックが明快で、非常に観やすく、のどごしの良い作品になっている。一方で、家族(主人公の実家も夫婦関係も)や写真のポジティブな面ばかりが打ち出されており、実話をベースにしたとは思えない、ファンタスティックな仕上がりに。妻夫木聡が演じる長男が、物語において見せ場がなく、あからさまに観客との懸け橋役を担わされていて不憫。それが長男と言われればそうなのかもしれないが。
石井裕也監督作品には寡黙な主人公が多い。本作の妻子持ちの主人公・厚久も、英語なら「愛している」と言えるのに日本語だと言えない、と笑う。言語は他者だけでなく、自分を理解するツールであるが、厚久は言葉を飲み込み続けてきたことで、自分の感情にも蓋をする癖がついてしまった。そのことが引き起こす家族の崩壊を、半年刻みの見事な省略話法で、スリリングに描いていく。ミニマムな世界のお話に、日本人が直面している貧しさや孤独、絶望もさり気なく滲ませる。
「ああいう人って人格があるのかね」と元都知事は障害者のことをそう言った。「LGBTは生産性がない」という女性議員の発言は、「意思疎通のできない障害者は人間じゃない」と19人殺した植松聖につながる。日本はどこまで劣化するのか。それに引き換え、「優性思想は私も持っていると感じる時があるから、怖い」と話すまあちゃんの発言のなんと知的な希望! 聴覚障害の彩子監督もうつとアスペが共生しているまあちゃんも可愛い。虚飾なく自分を生きている人はそれだけで魅力なのだ。
何の予備知識もなく見ていたので、どうにもつなぎが歪な作品だろうと首をひねっていたら、最後の一篇でやっとこれがオムニバスだとわかった。オムニバスは難しい。成功した例もあまりない。見る側としては、ある一つの観点から見たいのに、篇ごとにバラバラだと気持ちが分散してしまう。だから、話はまちまちでも各篇に一貫して通じるテーマなりモチーフなりがないとうまくいかないのだ。女性の生き方アラベスクというのか、それぞれに興味深い女性たちが出てくるだけに惜しい。
シャーデンフロイデ。人が不幸になると、脳内物質・オキシトシンの分泌が活発になり、喜びを感じる。人間は因果な生き物。で、浅田家の幸せな模様をいくら見せられても退屈、このままずっとこれが続いたらどうしようと思ったところに東日本大震災。ここから話が始まる。カメラマンが写真を撮らず、洗浄するというのがいい。核となるエピソードは個人的な経緯ですぐにネタバレしたが、やはりいい。黒木の若奈はヒット! でも、浅田氏はなぜこんなに家族にこだわったんだろう。
久しぶりに考えさせる映画を観た。夫も妻もものすごくまともに生きている。妻は「女でありたい」ために、夫と別れ、別の男と一緒になるが、相手が悪かった。殺されても仕方ないようなクズ。殺したのは奇しくも引きこもりで大麻癖の夫の兄。その妻もクズが残した借金のせいでデリヘル嬢になり、客に殺される。悲し過ぎるのだ。夫はあまりに真摯なために、本当のことを口にできない。彼女と娘のために家を建てることを夢みていたのに、「愛している」のひと言も言えない日本人なのだ。
台湾に一緒に旅行に行ったアスペのまあちゃんが、台湾はいろんな人がいるから緊張しなかったという。逆に言えば日本は単一なのだが、それは「普通」を強いてくる社会ということだ。その普通を自分も相手に(自分にも)無意識的に基準としていないかと監督が気づく。その瞬間から監督自身も画面に映りだし、自身被写体になる。マイノリティ自身も内面化している普通=優性思想。監督は二人にとっての常識=普通を探りなおす。普通は一様ではない。「友達」は優性思想への抵抗になる。
オムニバスにありがちだが、各監督の個性がバラバラ。それでも何か突出したものがあれば看過されるのだが、結果的には残念なものに。一人の女優の個性を描きたいのか、蒲田という土地の個性を描きたいのか。コンセプトに関して予め監督間でコンセンサスを得ておくべきだった。監督の個性を尊重といえば聞こえはいいが、丸投げで勝手気儘にやらせた印象。特に第四話に関して問題ありと見る人もいるかもしれないが、第四話だけの問題ではない、製作者の無策が全体を不明瞭にしている。
その人を理解しない限り写真を撮らないという主人公が震災で持ち主が分からなくなった写真に関わるから痛ましさが増す。写真はその人そのもの、もっと言えば身体だ。写真を洗う作業はまるで遺体を清める作業を思わせる。物体としての写真は無くなる。それは死に近い。しかし一方で、物体だからこそ残り、また見つかるということもあるわけで、それは蘇りであり、その感動は、クラウド上に保存されたイメージの発見と比ぶべくもない。写真が紙であることの意味を考えさせる映画。
好きだからこそ大切なことが言えず、大事なものを失ってきた男が、今度こそそれを言うために走り出す。その瞬間で映画が終わる。この前のめり感が素晴らしい。原点回帰、信念と衝動のみに導かれたという監督の熱と、主演俳優三人の存在感が融合して、もはや監督の映画とも俳優の映画とも言い難い作品になった。粗削りな感じはするが、低予算、限定された撮影日数ゆえの切迫がむしろ肯定的に機能している。主演三人(特に大島優子)も監督と正面からぶつかり一段階ステージが上がった。