パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
着地点からして夫婦のいい話に見えるけれど、人間の打算や狡猾さが台詞や表情から読み取れる。例えば、「俺だってがんばってるもん」という豪太の台詞。妻でなくても「どこがだよ!」とツッコミたくなるところだが、実際に彼はがんばっているのである。せっかく捕獲した働き者の妻に見捨てられないギリギリのラインで、どこまで怠惰な生活をするかという、生きるか死ぬかの戦いを。表裏一体の愚かさと愛しさから目をそらさずに笑いに昇華する、強烈な人間コメディ。
“動く女性誌”のような映画。想定読者層は、仕事でもプライベートでも東京を謳歌している、もしくは東京に憧れる、10〜20代の女性。モデルの設定は、中目黒でルームシェアをする、27歳の美しい2人の女性。ファッション、音楽、インテリア、食のトレンド、旅行記事のほか、「女同士の友情って難しい!」「初めての妊娠・出産」「新しい家族の形」といった2色印刷の読み物ページも充実。雑誌好きとしては楽しめたが、「映画とは何なのか?」という疑問が頭にちらつく。
元カノの幻影を追いかける24歳の青年が、友人や仕事相手、デリヘル嬢らと、恋愛談議を繰り広げる。主人公は一切自己批判をしない自己愛の強いキャラクター。映像は固定ショットの長回しを多用。恋愛談議にはアルコールが欠かせない。以上の特徴から、ホン・サンスの影響を強く感じた。粘度の高い主人公を、俯瞰で捉えて湿度低めに描くことで、微かなユーモアをにじませる。画作りは塩が一振り足りないが、ラストショットがとても鮮やか。終わりよければすべてよし。
ドラマとドキュメンタリーのパートがうまく嚙み合っていない。被害者家族の在りし日の幸せな姿や、加害者の不幸な生い立ちを再現したドラマで観客の情感に訴えてしまっては、観客が作品のテーマに向き合う際に、不要なバイアスがかかってしまう。再現ドラマなどなくても、資料映像や関係者の証言で、過去に何があったのかを観客に伝えることはできるはず。ドラマとドキュメンタリーのおいしいとこどりをしようとした本作は、双方をなめているし、観客の想像力を見くびっている。
嗚呼、身につまされる!! これを観て、そう思う人はかなりの数に及ぶはず。妻の口撃は本当に容赦ない。傷口に塩を塗るどころか、傷口をさらに広げて砂でも詰められるが如きである。新藤兼人の「愛妻物語」からのなんたる隔たり! が、のべつ幕なしに夫を罵倒しまくる妻は、ダメな夫のために全てを投げ出している。水川のおばさん体型は役作りのために体を太らせたのだろう。顔もすっぴん。これが役者なのだ。「幸運を呼ぶ赤いパンツ」を決して脱がない妻は崇高にさえ見えてくる。
なぜこれを劇映画にしようと思ったんだろう。メジャー大作だろうが自主映画だろうが、映画を作るには大変な労力を要する。それに見合うようなものでないと労力が報われない。これには劇(=ドラマ)はほんどない。出産は命がけの営みなのに、誰も汗一つかかない。激情に駆られて泣き叫んだり、どうにもならない自分に苛立って暴れたりという人間らしい有り様がはしたないとでも思って撮りたくなかったのか。おかげて、人に何の感銘も与えない、映画みたいなカタログが出来上がった。
優しさしかない男は捨てられる。優しさの呪縛に息が詰まり、このままではダメになってしまうと女子は思うのだ。前原を捨てた「シミちゃん」等女子たちはみな自分を持っているが、前原は自分が何者かもわからず、自分を作ろうともせずにただ悶々と生きている。実話を基にしているだけあって、あまりのリアリティに気が塞がってくる。この時代に生きている男はみんな前原のようなもの。ラスト、前原が微笑むのは希望を手にしたからではなく、絶望と折り合いをつけたからだと思う。
この事件のことを書いた本を二冊ほど読んでいた。殺されてもなお何かを守ろうとする利恵さんの強さに心が揺さぶられた。いろいろなものを一つ一つ大切に積み上げてきた利恵さんを、何も積み上げてこなかった男たちが軽く思いついたような感じで残忍に殺していく。この理不尽に憤りを抑えられない。前半は幼児から事件に至るまでの利恵さんの人生をつづったドラマ。後半は母・富美子さんを追ったドキュメンタリー。ドラマは事件のその日のみに凝縮するべきではなかったのか。
売れない脚本家の夫と愛想をつかしかけている妻の、スケールの小さすぎる口喧嘩で映画の大半が占められているのだが、あまり飽きないのはロード・ムーヴィーという枠組みの採用が寄与している。俳優の存在感、夫婦の過去などの背景の開示で緩急をつける脚本の上手さもそれを補助した。情けなさ過ぎての号泣が、その情けなさゆえに笑いに変わる場面が白眉。ただ、ご無沙汰の妻といかに性交に持っていくか、その駆け引きのしつこさに少々食傷、夫の小ささを示す別のアイディアが欲しい。
ファッション業界で働く二人の女子が中目黒でルームシェア、一人が妊娠、シングルマザーとして出産を決心する。詩のようなモノローグ、PVさながらの美しい映像、おしゃれな音楽でガールズ・ムーヴィー風なテイスト。しかしそのために犠牲にされたものは多く、父親は種を植えただけで画面から去り、その存在はもはや問題にもされず、出産、子育てにはルームメイトが二人三脚、親も会社も物わかり良く、彼女らを補助してくれる好条件。ナカメ界隈だとこんなおとぎ話が成立するのか。
五年越しの付き合いの彼女に振られた男が、一か月様子を見る。やさぐれてみたり、仕事で知り合った女性に言い寄ってみたり、風俗に行ったり、彼女とうまくいった友人に絡んでみたり、とりとめない出来事、微妙な感情の揺れ動きが淡々と描かれて、それでもそれなりに見ていられるのは、本人の体験だという主演俳優の、イタいが愛嬌のある存在感によるだろう。拘束される映画館だからこそ成立する作品ながら、不意に出来事が生起する映画的瞬間があるかと言えばそれも疑問ではある。
事件の重大性、被害者遺族の心痛は重々承知、しかし映画としてどうかという評価はまた別ものだ。被害者、加害者の過去を追うドラマ部分、事件までのカウントダウンで描くのでは、偶然やタイミングなど、次にどうなるか分からない現実の持つ揺らぎが捨象され、起こるべく起こったように見えてしまう。事件が起きてしまうには何か飛躍があるはずで、事実を時系列で追うだけでは見えてこないその飛躍への肉薄が見たい。ドラマ化するのはいいがドラマの弱さが映画を弱くしては元も子もない。