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古くは「サンセット大通り」、「マルホランド・ドライブ」、最近では「アンダー・ザ・シルバーレイク」などハリウッドという土地固有のメディア亡霊に取り憑かれた男。幻影と現実だけではなく、価値と無価値、善と悪、演者と鑑賞者の境界は消失。鑑賞者の方がドラマティックで映画の題材と化す。自身の身体性も希薄となり誰もが離人症。自分の肉体を引き止める唯一の処方は耳の垢の匂いを嗅ぐこと。そこが唯一のリアリティへの命綱だ。昨今のマスク手放せない習慣も身体的安心か。
ドイツ占領下時で実在したノルウェー女優でありスパイ。「他人を演じる才能」が女優であることとスパイ活動を同義に定義される。女優とは「職業」なのか「生き様」なのか。全ての職業に該当する問いである。ナチズムを善悪の領域に回収するのではなく、ある条件下では誰にでも起こりうる例のようだ。家族のためにスパイ活動に身を投じたのではあるが、「演じる」ことへの悦楽もあったのではないか。地下政治活動、ナチ、夫婦、女優。「職業」の従事の隙間に人間性が顔を出す。
ジョセフが海辺への道中、歯が一本抜ける。全篇が物質を口内で嚙み砕き消化するという感じではなく、ピノキオの鯨の胃袋の中にいるようで、虚実、昼夜、過去未来が溶解されていく。未来とは常に草臥れた疲労状態にあり、眠りに陥る経験ではないか。アニメーションとは意志の表現であり、その作画やテイストこそが物語を強く伝える。ダヴィンチは水の表現を生涯追求したが、揺らめく水があらゆる形態として登場。銅鐘ですら高温では液体となる。解答のない心地よさに酔いしれた。
カーボ・ヴェルデから亡き夫の幻影を追ってリスボンのスラム街ファンタイーニャス地区へやってくるヴィタリナ。一貫してファンタイーニャス地区が舞台であるコスタ。かつてカーボ・ヴェルデと言う島の名前をクリス・マルケルで知った。奴隷貿易で有名なポルトガル領だ。その土地に折り畳まれた歴史と記憶。ヴィタリナは既にこの世に居ない不在の夫に寄り添う。しかし内面は憤怒と失望が横溢。次第にそれらがが消えていくとき、夫の不在は非在だったことに我々は気づくのである。
「ジョーカー」と「Mr.ビーン」を混ぜたら最悪の味になった風のひどい出来。2019年ラジー賞主演男優賞受賞は実にふさわしく、中身はそれ以上に最低だ。トラヴォルタ66歳が演じるナイーヴなB級映画ファン像は私自身同類のオタクとして怒りを覚える意地悪い造形だし、現在の社会規範では容認されない偏見を助長する描写があり、悪質ないじめを戒めも弱者の復権もなく放置する無神経さに胸くそ悪くなる。ドナルド・トランプの頭の中を覗くような不快なアメリカ映画。
ロマンチック・サスペンスの体だが、女性が素人スパイとして働かされる緊張感がなく物足りない。また当時のノルウェーのレジスタンス多発や主人公が演じたナチス・プロパガンダの実物、戦後の彼女の人生などの場面がなく、歴史実話の重厚感に不足する。いっぽう手練れの女優がナチス将校と若いイケメン外交官をさばけた感じに二股不倫する展開はハーレクインロマンス風味、撮影と美術が上品かつ淫靡でメロドラマを見たい人はそれなりに酔える。そこはオッサンの私もニヤニヤした。
アニメーションで中年男の孤独と向かい合おうとは思いもよらず、意外性に高揚した。絵コンテがそのまま動き出したようなフリーハンドな画風は物語の私小説的世界観を鮮明にする目的で、初めから虚構性の強調と定型のタッチが埋め込まれた日本製アニメと本作では方法論に根本的な違いがある。R・カーヴァーの原作は村上春樹が翻訳、映画にも村上的な微温感が満ち、ほとんどアニメを見ない私でも引き込まれた。珍しさで得している部分もあるが、実写映画のように楽しめる。
娯楽作を求める観客には用のない芸術映画。が、映像を闇とモノトーンで設計し、音響を極力排して画面と客席を有機的に接合させる演出には現代美術鑑賞に似た緊張と刺激を感じた。長編詩のような抽象的物語ではあるものの、ゲットー、底辺労働、監獄、地下水道など大都市の暗黒面のイメージを通し格差問題やメメント・モリを痛みと共に伝える。メッセージが鋭く刺さるほどに、こうした作品をエアコンの効いた快適な劇場で優雅に見て語るべきかのジレンマがつきまとうのだが。
これは一体なんだろう。もし作り手が客観性を持っていたなら、この登場人物たちの相関関係はコーエン兄弟が描くように奇妙な味を生み出したかもしれない。だが本作は迷惑な人が他の迷惑な人と出会い、物語として都合のいい化学反応が起きて不幸な顚末になっただけに見える。そもそも変人が二人という偶然性も、珍奇なストーリーテリングに思える。ストーカーの映画はこれまでにも作られてきたが、このラストは同情できず、しかし陰惨すぎて心の落ちつきどころがない。
良くも悪くもなんの引っかかりも心に生まれない作品だ。まだ稚拙さがインパクトになっている失敗作や駄作のほうが見応えはあって、本作のように抑揚もなく話が流れていくだけの映画は、生ぬるくてつらい。ナチスに侵入する二重スパイという、いくらでもサスペンスフルになり得る出来事が茫洋と演出され、ぼやけた顔立ちの俳優陣が特にはっちゃけるわけでもなく淡々と芝居を繰り広げる。ただ全体に語りすぎないさじ加減は利いていて、ラスト辺りは大人の冷静さがある。
長篇アニメといっても、果たしてこの作品は本当に動いているといえるのだろうかと考えてしまった。観念的なセリフと墨汁で描かれたヘタウマなタッチは、相殺しあって曖昧になり頭に入ってこない。独立という主題にまつわる物語のはずなのに、観ている間、何が独立なのかの座標軸が見えないし、心を揺さぶるような取っ掛かりがないのだ。基本的に2020年現在において、様々なアニメが緻密さを極めようとする流れの中では、テーマに対しこの絵柄は従順でパンチが弱い。
ペドロ・コスタの家シリーズの極みというか、狭い室内で人生が全うされる究極の世界だ。コスタも昔は、撮影機材にこだわりを見せず、ノイズが入った映像をかけていた作家だったのに、本作は各ショットの構図がベラスケスの絵画のようにキマッていて完璧。黒から褐色への暗い色調の変化と微かな光も、人間や男女にとって原初的な物語も、研ぎ澄まされた到達感を覚える。ただアート色の強い作風ゆえ、本当に静止している画面が多いので、気軽に対峙できる作品ではない。