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格差問題の深刻化による貧困層の増加と、セットで悪化する家庭内暴力の問題。90年代のドキュメンタリー「フープ・ドリームス」が映し出した、都市の子どもたちの環境はさらに過酷なものとなり、持たざる者の夢はより遠くなってきている。本作の少年たちは、そんな厳しい現実から目を背けるためにスケートボードに集中し、日々をただやり過ごしているかのよう。この出口の見えない世界の絶望を当事者の側から眺めた本作は、アメリカを撃つ厳しい告発としての意義を持っている。
若者の死そのものを娯楽として昇華させたスリラーの傑作「ファイナル・デスティネーション」の内容を、携帯アプリを題材に焼き直しただけに見える設定。それだけに新味のあるアイディアがいろいろと必要になってくるはずだが、これまでのヒット映画で見たような表現が続くオリジナリティの無さにがっかりしてしまった。セクハラ問題を解決しようとする要素は、メインである携帯アプリの恐怖との繋がりが希薄だと感じられ、時流に乗ろうとするような安易な扱いとなってしまっている。
二つの社会問題を相乗的な取り組みによって改善する。そんな実際の試みを反映した、自閉症の少年とドロップアウトした青年の交流を主軸に置いた脚本が良くできている。なかでも、少年の行動が奇妙に思えるのは、むしろ周囲の無理解にあるのではという、劇中の発言には考えさせられる。一方で、施設に対する法的な問題への指摘を、現実を無視した不当なものであるとする主張は、少し行き過ぎのようにも感じる。撮影や演技など総じて質が高い作品だけに、多角的な見方も欲しいところ。
実在の天才的なピアノ演奏家が障害を乗り越えていく伝記的な物語だが、自分自身の欲望にまかせた行動が不幸を招き才能を腐らせてしまうという解釈が感情移入を阻んでしまう。ならばチェット・ベイカーを題材とした映画「マイ・フーリッシュ・ハート」のような破滅的な内容にすれば良いのだが、本作の主人公は再起してしまうので、感情を揺り動かされるポイントを見つけづらい。意味を持たないエピソードの積み重ねが人生だとはいえ、あえて描くのなら何か統一した描き方が必要では。
成長する三人の姿から、ドキュメンタリーの本物の力強さとドラマ性の、両方を堪能できる。スケボー店のオーナーが言う「スケボーは単なる遊びや仲間作りの道具ではない。これがあれば世界に行ける」のとおり、彼らの感情の動きを捉えた映像、“ここからどこへ行くのか”と問いかけ、行き止まりの世界にいる者たちは、観客の感情をぐいぐいと引っ張る。なかでも被写体であり監督でもあるB・リューの、自身へのカメラの向け方が優れている。もはやアメリカ一国の話では終わらない。
いきなり重箱の隅をほじくるのは気が引けるが、死期を告知するこのアプリは、DLした人の余命をどうやってプログラミングしたのだろうか。余命の長短はDLする人の中で無作為に決めるのだろうか。アナログ人間を自認する身には、不思議が多々。加えてスマホ画面の数字を見ながら迫りくる死への恐怖心と闘うのかと思いきや、驚くことにバケモノとの闘いだったことも。が、今どきの若者の集団ホラー心理をうまく取り込んだとは言えるかも。続篇の製作を匂わせているが、もう十分。
赤字の無認可施設と、社会からはみ出した者を社会復帰させる団体。運営者はともに実在の人物だそうで、誰もができることではない高い志とその立派な行いには頭がさがる。子どもたちの幸せよりも法律を優先するのか。これを主題に、役所側や病院スタッフの心情も盛り込みながら、施設や団体を維持すべく体当たりで奮闘する二人を軸に据えた演出は快調。以前、O・ナカシュは言っていた。「絶対に嘘はつかずに現実をありのまま描きたい」と。社会問題をユーモアでえぐるスタイルは健在だ。
ブラジル人ピアニストの幼少期からデビュー、注目を集めた20代から困難に見舞われたたその後を過不足のないエピソードで繋いでいる。J・C・マルティンスその人の人物像はそこそこ描けているが、彼を取り巻く人物、例えば妻のキャラクター(と周辺の女性たち)に深みがないせいだろうか、物語はさらっとしてやや平板。C・イーストウッドが映画化を希望していたそうで、結果論だが彼のバージョンを見たい気がする。劇中の音源がすべてマルティンスの演奏。これに★ひとつ。
スケボーを追いかけるカメラの迫力は出色ものなのだが、そのカメラはドキュメント部分では監督の身の回りの友人の人生のうわべを映すばかりで、奥に見え隠れする危険地帯には決して踏み込んでいかず、それでも過去の虐待の悲惨さは伝わってくるとはいえ、今の彼らには気の置けない仲間がいるし、家も車もあり、再三に渡って破壊されているスケートボードだって安いものではないはずで、観ているこちらの疑問は膨れてゆくばかり――果たしてそこは本当に行き止まりなのでしょうか?
スマホアプリというアイテムはそれほど重要ではなく、死に追い掛け回されるという物語の骨子は「ファイナル・デスティネーション」シリーズのそれで、概念であるはずの「死」を「悪魔」という実体で描いてしまうのはせっかくの哲学的テーマを安易なスプラッタでマスキングしてしまっているようにも感じるが、大オチはなかなかに技が利いているし、「聖書はアメコミだ!」と嘯くマッド神父が、ある種発明ともいえるキャラだったこともあり、全体的にはかなり面白く観ることができた。
公的施設から見放された重度自閉症患者をただひたすら心と信念だけでケアする社会的にはアウトロー集団である無認可支援団体の日々はまさに戦争であり、恋もプライベートもすべて投げうった闘いの果てに望むものは金や名誉、あまつさえ感謝の言葉ですらなく、ただひとつ患者の笑顔であるという彼ら支援者を同じ人間として誇りに思うし、ラストシーケンスで滂沱の涙の海に突き落とされた自分に本作を映画として冷静に評することなどできるはずもなく、さすれば満点をつけるほかない。
天才ピアニスト、マルティンスの音楽という魔物にとりつかれた狂気の人生を描いた本作、よくぞこれだけ詰め込んだと感心するほどに内容がギチギチに詰まっているうえ、全てマルティンス本人の演奏音源が使用されているという演奏シーンも観ごたえ聴きごたえ充分なのだが、演出は彼の精神状態や生命力に呼応しているが故に均質さに欠き、青年期の弾けるような面白さが最後まで続かず、物語が進むにつれ音楽家伝記モノ特有の落ち着いた雰囲気に寄っていくのが少々飽き足りなくもある。