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14歳の女の子が、口の悪い不思議な老婆と出会い、人生において大切なものを学ぶ、ビルドゥングスロマン。東京を一人で訪れる主人公の緊張感や、夏休みが始まる瞬間の教室の高揚感など、芝居場ではないちょっとしたシーンが効いている。誰もが共有するあのときの感覚を喚起するから、主人公の変化が鮮やかに伝わってくる。ただ、クラゲバージョンのメリー・ポピンズのようなファンタジー描写や、夜空や、屋根が連なる街並みの、絵本のような質感の映像処理は若干やりすぎか。
世界観の完成度の高さに、ディストピア小説の換骨堕胎に成功した原作ものと思ったら、監督のオリジナル脚本と知り感嘆した。主人公がたどり着いた「町」はフェンスで囲まれて自由はないが、衣食住が保障されており、一概にディストピアとは言い切れない。我々観客が暮らすフェンスの外側の過酷さに、なんならフェンスの中がユートピアに見えてくる。フェンスを挟んだ二つの世界を対比し、その様相を変化させながら問題提起し、いつしか観客が主人公として映画の中に存在する。
辺野古新基地建設問題を軸に、大学院生、村議会議員、写真家、高校生ら若い世代を追いかける。辺野古で起きている問題とその本質がわかりやすく理解できるし、基地前で座り込みをする市民を排除する警察の映像は、テレビ局が現政権の顔色を伺う昨今において、貴重な記録となるだろう。作り手の真摯な思いを広く伝えるためには、乱暴な言い方をすると、映画としての面白さが必要。編集の工夫をすれば、4人の物語が有機的に絡み合い、もっと短い尺で大きなうねりを生み出せるはず。
不穏な展開を予感させる意図的なロングショットや、『妖怪人間ベム』の「お蔵入りになった最終回」の謎に期待が高まる。まずは女子高生の沙織が、続いて広告代理店の康介が、ベラとの出会いを契機に狂っていく。2人の俳優による狂気の表現は力強く、特に森崎ウィンが演じる康介の、昆虫のように予測不能な動きが周囲に与える恐怖表現は発明の域。しかし、よくよく考えるとベラは何もしていないのに、2人は勝手に狂っていった。妖怪人間が人にどう作用したのかが最大の謎。
ファンタジーはとかく取っつきにくい。「どうせ嘘話でしょ?」と映画にリアリティを欲しがるおっさんに予め偏見を与えてしまう。現に、「所詮ファンタジーだろうが」という作品の実に多いことか。この映画も最初そう思っていた。が、俳優陣が地に足のついたとても確かな演技をしている。清原果耶のどこか大人びた、だが純に思いつめた顔がいい。桃井かおりのかもす味も健在で、ファンタジーであることを忘れさせてくれる。緻密で誠実な演出が映画の品格を快く高めてもいる。
作者のイマジネーションの豊かさは称賛に価する。が、映画として何を面白がればいいのかわからないし、見ていて訴えかけてくるものも感じられない。設定はユニークなのだが、そこに蠢く人間たちは、どれもありきたりで興味をそそる人は一人もいない。そんな人間だから、「町」に収容されてしまうんだろうが。人を感心させるために作られているような感があるが、そういう映画に人は心を揺さぶられない。いい映画には良くも悪くもスピリットがあり、それが人の心に震わせるのでは?
登場するどの人もとても立派で、見ているこっちが恥ずかしくなってくる。彼らがなぜここまで真摯に生きられるのか!? メインキャストの大学院生・元山さんは、辺野古新基地建設の賛否を問う県民投票を実現するための署名活動を始める。が、条例が可決しても県民投票は実施しないという市が出てきて、投票は頓挫。それに対して元山さんはハンストを決行! 行動原理は生まれ育った沖縄に対する愛なのだ。素晴らしい! が、これを「映画」として評価しなければいけないのがつらい。
テレビアニメの『妖怪人間ベム』が始まったのは、今から50年以上も前だが、いま妖怪人間女子のベラを主人公に蘇った。某女子高の転校生として教室に出現するベラ。顔を覆うような漆黒の前髪を垂らした刺すような目をしたベラ。それだけで、もうわくわくしてきた。友達を装った同級生の陰惨ないじめに心地よくしっぺ返し……と思いきや、話はベラに魂を奪われて凶暴なモンスターと化していく男の話になっていく。ベラをこそ見たかったのに、なんたる肩透かし! 残念、無念!!
家族や元カレとの間に屈託を抱えた中学生の少女が、自分一人だけの空間と思っていたビルの屋上で、魔女のようなおばあさんと出会い、彼女の存在によって人生を前向きにとらえられるようになる定型的成長物語。おばあさん役に桃井かおりは適役過ぎて逆に驚きがないが、主演の中学生二人の瑞々しさが好感度を上げている。血よりも一緒に過ごした時間が重要だと言いたいのか、おばあさんがずっと会えなかった孫と再会してめでたしで、結局血筋を肯定するのか。まあ正直どっちでもいい。
劇場版やら第二弾やら、意気を欠く企画の多い現在、オリジナル勝負は評価。ネカフェ難民や自己破産者、DV逃亡者などに衣食住を与える代わり、身代わり投票、ネット世論の醸成など「人数」として働かされる町。フーコー的生政治の究極的ディストピア。自由だけはない彼らと、自由はあるが生きることすらままならないホモ・サケルの外の世界とどちらがより少なく不幸なのか考えさせられる。結末に文句はないが、ディストピア崩壊を見たいし、その方途を想像する力を我々も持ちたい。
冒頭で、生まれた時から基地が日常という若い世代が、既成事実を変えようとする映画だ、と。しかし既成事実を知り、何が問題なのかを認識し、変えるために行動を起こすことは普遍的営為であり若者の専売特許でもあるまい。県民投票を実現させた元山氏の活動開始時の挨拶が、世代間の対話=昔を知ること、島々の対話=他所との交流という映画の方向を示しており、それを構成主軸として編集すれば、コンセプトが明確に見える映画になったはず。題名も弱すぎて何を伝えたいのか不明。
お蔵入り最終回に映っていたベラの、何か言っている口元。それが何だったのかという謎に始まり、旧帝国軍の施設に話が進む展開は、「女優霊」や「CURE」を連想させるが、実際脚本が立教系の人だった。ベラの哀しい物語になるのかと思いきや、ベラの周囲、特に最終回を掘り出そうとしたソフト会社の社員が狂気に陥り、家族を襲う「シャイニング」的展開。主人公の狂気演技が暑苦しく、「全員気が狂う」というキャッチなのだから彼にこだわらずもっとオムニバス的に展開してもよかった。