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ジョニー・デップの奔放なイメージを使いながら、ときに倫理観から逸脱する描写をすることで、余命ものに痛快な刺激を与えようとする試みは面白い。だが、ここで表現される解放が、名前も知らない相手との行きずりの性行為であったり、フェミニズムに傾倒する女子学生の思想を否定し改心させる行為だというのは、老年・中年男性の身勝手で保守的な思想の助長に他ならない。このような幼い精神の大人が、いまむしろ体制側になっているというのが、現代の悲劇ではなかっただろうか。
地味な男子学生が大人の扉を開く青春映画といえば、学年に君臨するアメフト部員を打ち倒したり、女王の座にある女子学生と一夜を過ごすなどの展開がお決まりだが、本作はこのジャンルの主人公の性別を女子に変更するだけでなく、学校内の地位やコンプレックスに縛られず、学生たち全てを尊重する新しい視点を与えたことが画期的。ここで表現される女子同士の友情が、世の中の重圧から自分たちを守り合う同志としての関係や、互いの生き方を認め合う関係として描かれているのがいい。
トーキー出現以前からの映画音響の歴史を追いながら、音楽、効果音、音声の3つの大きなカテゴリーに映画音響の作業を分類しつつ、さらにそれを細分化した9つの要素で紐解いていく大労作。さらに「スター・ウォーズ」の効果音を担当したベン・バートはじめ、音に情熱と創造力を注ぐ人々の姿をとらえるなど、この一本で映画音響における概要を全て網羅しようという試みがすごい。ただ、ここでの詳細な解説が映画の“魔法”をたね明かししてしまう面もあるので、注意すべし。
ジョナ・ヒルの自伝的要素を反映したという物語が、90年代インディーズ映画の要素を煎じ詰めたような、ストリートカルチャーの郷愁的イメージで表現されるのが大変快いが、あまりにも“きれい過ぎる”のでは。当時ジョナ・ヒル少年が見たのはダウンタウンの少年たちのきらめく上澄みであり、本作の内容は、彼がそこまでしかコミュニティに参加できなかった証左であるように感じられる。今後公開されるドキュメンタリー「行き止まりの世界に生まれて」で、この不備を補完したい。
余命宣告された大学教授の役柄なので、ハサミ男や白塗りメイク、あるいはエキセントリックなまでにキャラの立ったJ・デップを見慣れた身には、序盤はちょっぴり拍子抜けの感。が、自分の余命を知った彼がしがらみから解放されて過激な言動にはしる後半からは、本来の持ち味が出ている。お涙頂戴の難病ものでなく、人生を考察させるエピソードが面白い。特に大切にしている妻と娘について、実は彼は何ら理解してなかったという皮肉の効いたユーモアを評価したい。旅は犬連れ……。
勉強はテキトウで遊びはシッカリ(のように傍目には見える)な子が、良い大学に進学を決めた、どうして……。地頭の良し悪しはさておき、ガリ勉女子のヒロインの気持ちはごもっとも。アメリカの、卒業前のパーティにかける気合いは日本とは比較にならないにしても、まるで失われた高校生活を一気に取り戻すがごとくのパーティ潜入を、アクション&アドベンチャー風に仕立てたのは面白い。酔っ払ってハイになる等、パーティ場面の平凡さはあるが、監督のコメディ・センスに+★ひとつ。
ひと口に映画の音響といっても、セリフ(同時録音orスタジオでのアフレコ)、音楽、効果音(ナマ音or作られたSE)があり、各作業はそれぞれに複雑である。このドキュメンタリーは映画におけるサウンドを解りやすく紐解く。サイレントからトーキーになり、さらにフィルムからデジタルに。変遷した音響の、クリエイター、もしくはエンジニアたちの話は面白く為になる。個人的には肩に食い込むナグラの重さ、幅広の磁気テープ、スタジオのコンソール等々、70年代の仕上げ作業を回顧。
スケボー少年の青春は、A24のブランド・イメージらしいタッチの、不安定さと成長の苦悩。家庭への幻滅、認められたくてちょっと背伸びをする、憧れの仲間に入れてもらえたときの嬉しさ。その彼らも親がリッチだったり、貧困だったり等々、問題があり、このあたり関係性の捉え方はうまい。主人公を苦しめるマッチョな兄役のL・ヘッジスの存在感も◎。小道具で90年代という時代色を出しているが、振り返ればいつの時代も、男の子も女の子も、青春前期は結構悩ましい年頃ですね。
シーン1、カット1で何の脈絡もなくいきなり余命宣告されるジョニー・デップからはじまるこの映画、観ている我々は主人公が自分だったらどうするだろうと考えざるを得ない作りになっており、序盤は皮肉屋の大学教授と問題だらけの家庭を喜劇調に描くことで油断させ、中盤以降、気が付けばいつの間にか死神が片足を摑んでいるという狡猾さを発揮しながらも、紆余曲折の末、主人公が導きだした死生観は極めて凡庸なものであり、凡庸であるがゆえに逃げ場がなく、リアルで、恐ろしい。
いわゆるアメリカンハイスクールのプロムで勝負かけるぜモノといえば主人公はチェリーボーイと相場が決まっているのだが、本作は性格が捻じれてる太め体型(個人的にはナイスバディ)女学級委員長とレズビアンの親友という変わり種コンビが暴れまわるコメディで、物語はつねに物語の都合で進み続けるがゆえ、リアルな感情で考えると何かと疑問も残るのだが、抜けのいい笑いと、瑞々しく思い切りのいい演出に乗せられ、いつしか彼女たちを応援しているという、バディムービーの快作。
作中の名だたる監督、技術者たちが異口同音に語っているように、映画にとって音というものは映像と同等、あるいはそれ以上に重要であるにもかかわらず、音楽以外の音については語られる機会が多いとは言えず、かくいう自分も実作者として映画に携わる前は音響効果の奥深さを理解していたとは言い難いのですが、出資サイドに冷遇されがちな音響デザイナーの地位向上のためにも、この映画をきっかけに足音ひとつにも映画人の魂が宿っていることを広く知ってもらいたいと切に願います。
個人的には少し苦手なアメリカン不良カルチャーてんこ盛りで、主人公の少年は13歳で酒、煙草、ドラッグ、セックスを覚えてしまったらこの先の人生面白くなかろうに……などと余計な心配をしながら観たのだが、16㎜フィルムで撮られたスタンダードサイズの画とポップミュージックでマスキングしたイイ感じに軽薄なサウンドデザインは90年代の空気を見事に捉えており、時節柄この映画を家のモニタで観ざるをえなかった無念は大きく、皆様方は是非劇場で堪能して頂きたく思う。