パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
ヒトラーやナチスが絡んでると日本公開が実現しやすい近年のヨーロッパ映画の配給環境に思うところは多いのだが、中身は子どもの名付け問題を入り口に、アンジャッシュのコント的なすれ違いを経て、長年秘めてきた親戚や夫への本音を爆発させる気軽なコメディ。こんな他愛のない話が、フランスの舞台劇から始まって、フランス、ドイツ(本作)、イタリアと各国で映画化されているのには少々戸惑う。舞台の映画化作品としては手堅い作りだが、それ以上でも以下でもなく。
ポップカルチャーやスポーツ観戦に入れ込みすぎて私生活に支障をきたす大人。過去に縛られて人生の足踏みをしている大人。そんな大人に気づきを与える子ども。90年代からニック・ホーンビィ小説が延々と書いてきた主題が本作でも繰り返されているわけだが、いくらなんでも自己模倣が過ぎるのではないか。途中から登場するイーサン・ホークの存在感によって作品のテンションは保たれるが、それもリンクレイター作品で彼が演じてきたキャラクターの借り物感が強い。
60年代ゴダール作品のミューズとしてだけではなく、あまり振り返られる機会がない、監督や作家や歌手としても活動した「その後」のアンナ・カリーナも人々の記憶に留めたい。そんな彼女の4番目の夫デニス・ベリーのパーソナルな想いが結実。亡くなる2年前の作品なので、過度に感傷的でないところには好感が持てるが、作品の成り立ちはあくまでもフランスやドイツで放送された55分のテレビ番組。そして、やはりどうしても目に焼きつくのはゴダール時代の圧倒的な輝きだ。
ファッションリーダーがスーパーモデルからセレブタレントに移行していく時代を先取りし、近年アメリカで蔓延しているオピオイド中毒という点でも時代に先んじてしまったケヴィン・オークイン。メイクアップ・アーティストはスタイリスト同様に市場経済の住人ではなく、ファッション界や芸能界のインナーサークルにおけるコネクションと信頼で回っている職業。その癒着性や排他性は、時に部外者からすると疎ましくもあるのだが、本作は内輪の賞賛に終わらず批評的視点も。
三世代で食卓を囲めば、ニュースの感想ひとつ言葉にするにも批判精神と自制心の狭間で緊張感を強いられる生活ゆえ、親しい大人が集って、本音をぶっちゃけ合う設定には違和感を抱いたが、同世代ならではの丁々発止の会話劇は痛快。普段は押し止められていた不穏な衝動の堰が切れてしまった晩餐の席でいちばんの愚か者はトーマスだが、ジャッキー溺死の真相などシュテファンの怖さよ! ドイツで150万人が抱腹絶倒した作品本来の面白さを無邪気に楽しめる日が再び来ることを願う。
“安定したカーディガン姿の英国女性”風のヒロイン・アニーが、似合わない花柄ワンピで、最低の行為に暴走したところから、ラストシーンの、髪をアップに、自信に満ちた、都会のモノトーン美人に大変身する様を、R・バーンが鮮やかに魅せる(衣裳はL・プー)。腐れ縁の恋人を遂に家から追い出した後、妹と出かけたバーでアニーが踊りだす、物語の転調場面など、音楽とシーンのマッチングが素敵だと思えば、監督がレモンヘッズのベーシスト、J・ペレッツとは、これまた嬉しい再会。
ゴダールのミューズだったアンナ。その最期は6人目の夫に看取られたとニュースで読んだが、本作を撮ったのは4人目の夫D・べリー監督!?しかも監督自ら語るナレーションは、進行形のラブラブぶりで(17年製作)謎は深まるばかりだが、それも彼女らしいのかも。つい作品の背景に思いを馳せてしまうのは、ゲンスブールの曲を口ずさむ若き日の姿然り、赤裸々な昔話を、カフェでこともなげに聞かせる近影の彼女然り、一貫したアンナの魅力ゆえ。「自分の人生を生きる」を体現したアンナに献杯。
冒頭のケヴィン本人の発言が印象的だ。他者の美しさを見つけることから、自分の美しさ(個性や強さ)が見えてくるという彼の哲学は、時に他者への依存となり、やがて悲劇をもたらす。ミッキーマウスのように巨大な手は、メイクの魔法で、社会の固定観念を崩し、多くの人から美を引き出したが、自分の美しさは見抜けなかった。実に悲しい最期だが、涙ながらに彼との思い出を語る仲間の存在や、バーブラとの仕事など、本作で彼の努力を知り、生きる希望を見出す人はきっといるはずだ。
弟が生まれてくる息子の名前をアドルフにすると言い出したことから始まる一夜の会話の攻防戦。日本の名前だとなんだろ? 智津夫かな、などと考えているうちに、観ているこちらも巻き込まれ、この一家の一員になったような錯覚を覚え、インテリたちの化けの皮が剝がし剝がされる様は爽快感と同時に自己嫌悪にも陥る。意外な展開が次から次へと起こって爆笑、最後にはちゃんとオチもついた大団円を迎え、あぁ家族ってこうだよな、と顧みてしまう会話劇のお手本のような作品だった。
90年代初頭の数年間だけ活躍し、突如姿を消したオルタナロック・シンガーをE・ホークが演じる、というだけで堪らない。その男タッカー・クロウ(名前も良い)の過去は、当時の文化にどっぷりだった人間は体感を伴って想像できるだろう。15年間同棲するヒロインと彼氏(タッカーの熱狂的マニアである彼の痛さに苦笑)の終焉なき青春への焦燥感が突き刺さる。郷愁ではなく、現在、そしてこの先への希望を綴った普遍的な「大人になれない大人たち」の物語。
不遇な幼少期を過ごした故国から脱出しモデル、女優、歌手、映画監督、そして小説家にまでなった“ヌーヴェル・ヴァーグの象徴”アンナ・カリーナ、その「愛される才能」が立体的に紐解かれる。特筆すべきは、このドキュメントの監督、ナレーションを彼女の夫が務めていることだ。ゴダールとの関係、ヴィスコンティ、キューカー、そしてゲンスブールら伝説的な人物たちとのコラボレーション、その自分と出会う前の妻の軌跡を、誇りと少しの嫉妬を滲ませながらまとめる極私的な視点に好感。
80年代から00年初頭まで、美の変革を起こし続けたメイクアップ・アーティスト、ケヴィン。彼の膨大なプライベート映像はエンタメ史的資料としても貴重だが、パパラッチ写真に写るマリア・カラスの怒りの表情を基にI・ロッセリーニのメイクを仕上げるなど、人間の本質、魂をも表現しようとする彼の執念が映し出されていて圧巻。養子という出自、同性愛者だったことから承認欲求に囚われ美を追求する彼とそれを施される側の共依存が時代を作ったが、その顚末はあまりに哀しい。