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社会的正義と家族愛(同志愛)は天秤にかけられるのか。昨今の自粛警察や感染者差別などタイムリーすぎる要素が満載。劇中、感染者と健康な国民との間に、「回復者」という引き裂かれた媒介者が存在する。映画世界において記憶は書き換えられ曖昧になっていくのもあるが、本作では明白だ。二人の「回復者」の生き方は対極的で、一方は社会的正義として、一方は家族愛の道を選択。アビーの報道カメラは、大衆の記憶のメタファーとして機能しており、個人の記憶と対峙する構造。
いわゆるネタバレになるが、作品魅力の遜色にはならないと判断し述べます。ドイツならではのナチス亡霊の世代を超えるトラウマ社会派サスペンス。しかしユダヤ人が登場しないことと主人公がトルコ人という二点が独特。いままでドイツはユダヤ人に対して全面謝罪し続けてきたことで、逆に隠蔽されてしまったナチスの本質と戦後の加担者への過度な庇護や寛容。そしてどうしても自分たちドイツ人では客観視できないゆえ主人公をトルコ人に据え置いたこと。まだまだナチスネタは豊富。
ひとりの人間のたった数時間のなかに、過去や未来、通り過ぎた人々や会ったことのない人物、更にその人の未来が折り畳まれ、彼らの人生が彼ら主体で生き生きと繰り広げられる。なんというアイディア。自宅のアパルトマンに散乱しているたくさんの書籍の星座は、一冊の本を開けばたちまちそれぞれの世界や宇宙が蠢きだす。もはや新しい手法ではないがミュージカルのように使用される数々の名曲は、それぞれ独自の世界を持ち、観客もその名曲に対して個人的体験や記憶が想起される。
「なぜこの映画のことを聞かなかったの?」静謐すぎる画面の奥からストレートに問いかける。幾度も変奏される「言葉にし難い」という台詞。ヨーロッパ芸術史上の表象不可能とは全く異なる同じ問いが浮上する。人との親密性や触れ合い、生きることは傷を負うことだ。しかしそれを恐れては相互の理解も自身のトラウマの解決には向かわない。この刺青は個人的内容だと説明を遮断する男娼。皮膚はどこまでその人の所有物なのか。これはマイノリティだけではなく人類共通の物語だ。
3月中旬に本作が封切られた時、世界がこんなふうになろうとは予想しなかった。今となってはあまりに時世を映し心臓が痛む。「28日後」などに描かれた狂犬化ウイルスの治療法開発後の回復者(Cured)を描くゾンビ世界史の更新作で、未感染者による回復者の差別、両者の分断と憎悪、カミングアウトのリスクなどトピックは広範で痛烈だ。監督がアイルランド人ゆえIRA解体を身近に見た影響を感じるが、コロナ感染拡大を経験した我々にはその回復後をどう生きるか自問させる映画。
フランコ・ネロが画面に現れた瞬間に「映画」が始まる。ネロを見るためだけにオッサンは劇場に行く価値がある。地味に思われがちな法廷ミステリを多彩なキャラをちりばめスピーディに構成、欧米製の連続ドラマのような現代的センスで一気に見終わらせる。ただ中年の私には軽さやご都合主義も感じられ、その悪目を救っているのがネロの古くさく重苦しい演技で、意外な配役が功を奏した。ドラマをより楽しむならドイツの殺人罪や60年代末の政治状況を予習しておいたほうがいい。
キアラ・マストロヤンニ47歳が実によく脱ぐのがどうにも気恥ずかしい。妻の浮気発覚で危機にある夫婦の目の前に、時空を超えて過去に関係した異性が現れ干渉を始める不条理劇で、女が奔放多情、男が純情貞淑の設定がいかにも現代的。舞台劇として小劇場で観たら魅力的だったろうが、リアリティを伴う映画で観ると脚本の未整理が気になり、終盤、収拾つかずグダグダの印象も。男性がひとり観る類いの物語ではなく、観賞後に結婚観や謎解きを語りあうお喋り相手を同伴しないと虚しい。
ローラ・ベンソンとトーマス・レマルキス、二俳優がそれぞれトランスセクシャル、筋萎縮症患者らからアイデンティティや性の自閉についてカウセリングを受けるセミドキュメント。思わせぶりな間をはさみ哲学的な問答、生々しい性行為、SMパーティ描写などを重ねたアート志向演出だが、本質は「ホドロフスキーのサイコマジック」と同じ「下半身の悩み相談」。ユーモアを排し必要以上に高等遊民趣味を装った映像のせいで説教くさく、観客は性欲の解放より抑圧を感じる可能性も。
ゾンビ映画だが、現在のコロナ騒動を髣髴とさせる内容だ。ゾンビ化したのち、人間として回復した者が抱き続ける不安に焦点が当てられ、不運にも感染した人々の、後の葛藤や人間性が問われる。いささか性急な作りの場面もあるが、元感染者たちのテロ運動へと発展していく現代性や、血のつながりの薄い微妙な家族関係など、設定が効いている。全体を貫く静謐さと、クライマックスの街を覆う爆発力も目に鮮やか。エレン・ペイジの怒りや失望を理性で抑えた気丈さがいい。
シーラッハの小説は淡々としながらも、不思議なエモーションに溢れているから楽しんで読めるが、そういった筆致を削ぎ落してストーリーだけを追うと、どこかで聞いたような地味な作品に仕上がってしまう。コリーニが頑なに沈黙を続ける理由や、なぜ語りを引っ張る必然があるのか不自然に感じる。全体に同じトーンが続く演出も地味で、ぼんやりとした締まりのない映画だ。弁護士が主人公なのにディベートの刺激が乏しく、過去の黒を白にしかねない法廷劇の良作映画と比べ退屈。
宣伝に「ファンタスティック」という惹句があるが、空想的というよりむしろ場当たり的というか、脈絡なく様々な年齢の登場人物たちを引き合わせただけに見える。時間軸が揺れるのは構わないが、理不尽で辻褄の合わない話で済むならなんとでも出来るだろう。ただ、特定の若い年齢の男性にだけ惹かれる中年女性の設定は興味が湧いた。若い女性ばかり選ぶ中年男性がいるように、こういう女もいる。特定の世代の愛人が並ぶ絵面は、同性でも呆れると同時にある種の誇張された現実を見た。
生々しい性器の映像、またはトランスジェンダーや障がい者の裸を捉えることで、何かを成し遂げた気分になっているのは浅薄。肌の触れ合いという原初的な希求は重要だけれど、全裸の中年女性がダンスをするラストは、頑張った学生映画のようで恥ずかしい。所々ハッとするショットもありつつ、基本的には摸索を始めたばかりの女性映画という印象。観念的なセリフも実は当たり前のことを言っているにすぎない空虚さで、奇抜を狙う平凡さは心に引っかからない。