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「スピード」を髣髴させる畳み掛けアクション。ドイツが今更ハリウッド映画に追随する必要性が最大の謎。旧東西を縦横無尽に均一に滑走する自動車。物語はすべて車中で展開。主人公は都市の再生や成長を理想とするが、地上げ的建設会社のエリート。住居とは投機目的の金融商品。交渉も銀行業務(=バンキング=土木建設)もすべて携帯電話。そこに肉体性や人間関係が希薄化し、見えない都市化の加速が見える。犯罪に巻き込まれはじめて、親子の会話が実現。配信に適した映画。
「薄氷の殺人」同様にアジア的色彩の持つ深淵に蠢く不可視の人間模様。ひと昔前のリゾート地が持つ独特な不法アジール感。二日目の豪雨は鵞鳥湖がひっくり返ったように、湖面、敵味方、善悪の彼岸が臨界を迎える。前作は男性性の復権、今作はある意味女性性の自立・復権。犯罪現場とは倫理の侵犯であると同時に、性の侵犯も起こりやすい。前作の物語の中心的なアイスリンクが溶解し湖となり、同様にそこに漕ぎ出した小舟の上には、もはや名前や役職のない純粋な人間だけがいた。
神話のような映像。この風景と暮らしは数千年も変わっていないはずだ。目先の利益のための搾取は日常茶飯事で、それらは都市型経済や人間の消費のあり方がもたらした。自分たちが使う分だけ、半分は蜂に残して採取するという約束は、いつから崩れてしまったのか。人間の強欲を自然はどこまで許容してくれるのか。人言たちだけ好都合な「自然」に対し、我々は何ができるのか。人間の身勝手と対比される女性性の寛恕や寛容、力強さ、そして自己再生の奇跡。女性性こそが自然だ。
ドニー・イェンはひたすら強い。「アイスマン」では宇宙最強になったので、もう驚きはしない。今回は弟子ブルース・リーも登場。1964年のアメリカだが白人至上主義が蔓延。いや、現実は更に酷い状況かもしれない。男性・父性・敵対・名誉といった主題が反復され、母親的な人物が一人も登場しないだけに、闘争が強調されているようだ。イップ・マンがライバルの中華総会長の娘に「イップおじさん」とウルウル瞳で悩みを相談され、照れまくるシーンがなんとも微笑ましい。
スペイン製カーアクションの佳作「暴走車 ランナウェイ・カー」(15年)のドイツ版リメイク。車のシート下へ密かに爆弾を仕掛けた犯人からスマホに身代金要求があり、走行しながら切迫する設定は案外新味なく、横軸に家族の再生を置くのも既視感。ジャーマン・アクションのエース監督の生真面目な演出で緊張は持続するが、ストレス発散で劇場へ来る観客はもっとブッ壊れた要素がないと淡泊に感じそう。前戯なしでラストまで爆走するオリジナルに較べると上品でやや緩慢な印象。
古い日本映画の愛好者なら鈴木清順だ、石井隆だ、石井輝男だとニヤニヤワクワクしながら画面に釘付けになるだろう。ヤクザと娼婦の悲劇的道行きというVシネマ的題材を中国の荒んだ地方都市を背景に格調高く変奏するハードボイルドだが、オマージュ一辺倒ではなく、現在にしかありえない独特な“中華ノワール”の世界を強固に確立していて引き込まれる。同じ監督の前作「薄氷の殺人」以上にヒロインが薄幸で貧相、しかも成人映画まがいに乱される姿もオッサン客の溜飲を下げるはず。
シンプルな構成でありつつ見たことのない映像が続く奇跡的な作品。北マケドニア辺境の荒涼とした風景の中、自然に対する人間の“寄生”を問い、「パラサイト 半地下の家族」と別角度から社会の矛盾やライフスタイルについて考えさせる。周到に造形されたような映像の美しさや寓話としてあまりに完成した展開からにわかにドキュメントとは信じがたいが、演出だとしても設計で容易に作りあげられる質ではない。北マケドニア映画は初めて見たが、レベルの高さに強い興味を持った。
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナタウン。1964年、サンフランシスコに道場を開くブルース・リー24歳が70歳のイップ・マンを招く魅惑の架空設定。序盤は前作「~継承」から登場の陳國坤演ずるブルース・リーが大活躍しオオーッと燃えたり爆笑したり。中盤以降はシリーズ通例、人種差別が背景の異種格闘技対決に。今回は米海兵隊に採用された日本式「極天空手」を撃破するもネタ切れ感強く、主人公が70歳の高齢設定のせいか袁和平の動作導演も新味なく工夫に乏しい。
最近はワンシチュエーションで押し通すサスペンス映画も多いのに、途中でメインキャラ以外の重要な脇役に、主眼を移していく手法は潔いというかイマドキらしくないというか。警察の組織のあり方や発言権、家族が崩壊している事実、あまりに万能すぎる犯人と前置きが十分でない動機、後半で突然登場するキャラなど、設定として諸々に破綻はある。ハラハラする作品が観たい層は軽い気持ちで挑めば良いかも。もう少し犯人像と、主人公が警察に詰められる展開に自然さが欲しかった。
撮影のシルエットと光を通したカラー、空間の使い方は素晴らしい。しかし「薄氷の殺人」のギリギリなんとか理解できる語りすぎない話法が、本作ではあまりに不親切になり、意味不明な部分を多くはらむようになっている。良い意味で田舎臭かった前作と違い、アート色の強い演出はATG作品のようで逆にダサい。グイ・ルンメイの魅力だけで引っ張るのも難しく、意外にも作り手の本質が窃盗団の男と娼婦の出会いという、ありがちなドラマへ置きに行くタイプなのが露わになった。
長期間にわたって対象と接したドキュメンタリーだけが持つ物語性。これがじつは劇映画だと言われても信じてしまいそうなドラマティックさに驚嘆する。養蜂の物理的な痛みが隣人家族を襲う場面の、なす術のない状況に大自然のリアルさを見た。夜の野焼きの光も、単なるドキュメントでは捉え得ない稀有な撮影の賜物。主人公の女性の嘆きや繰言は、人は強さではなく置かれた状況に従わざるを得ない無慈悲さを表し、簡単に主人公への褒め言葉を許さない、人間の世界の怖さがある。
ドニー・イェンの老けなさ加減に驚きつつも、映画としてはシリーズを追うごとに衰えてきていて、本作は過去の格闘技映画のストーリーをつなぎ合わせたような凡作になっている。「ドラゴン怒りの鉄拳」が持っていた反日的感情は歴史の流れとして、生まれても至極当然だと思うが、現在において民族に根差す対立は、いかにも短絡的で嫌な現象だ。1作目の民族を超えて個人に帰する設定が感動的であったのを思い出す。家族間の揉め事なども初期の複雑さに比べて平凡すぎる。