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子供が考えたのかと思うリアリティのない設定や展開は、ベッソン映画のいつもの形なので、そこを頭から否定しても始まらない。だが今回はアクションの説得力も薄く、大勢の敵を撃ち倒していく見せ場については、悪漢が次々に自分から斬られに行くタイプのチャンバラと同じもの。強い女性の姿を見せたり、自立する生き方に目覚めさせるテーマは現代的に思えるが、根本的に女性の若さや美貌に拘泥する“オッサンの視線”があるのが描写の端々から分かるため、心には響いてこない。
暴力的な白人至上主義団体の内側の世界を垣間見せる作品として興味深い。タトゥーが描かれた皮膚を焼く身体的な痛みと、過去の自分の差別的な考えを捨て去っていく心情的な痛みの表現を同期させる編集によって、走狗として使われる青年の葛藤に真実味と共感を呼ぶ力が加えられたと感じさせる。実話が基になっているという事情もあるのだろうが、主人公を利用する親代わりの男女が類型的な悪役像にとどまり、主人公を同情的に描き過ぎている点には少し物足りなさを感じた。
過激な宗教指導者に傾倒していく少年の姿に迫り、その一挙手一投足を映し出すことで、排外主義思想の奥底にある女性への醜い感情をえぐり出した意義ある作品であるとともに、人間の素晴らしさや可能性をも説得力と悲痛さをもって描いた傑作中の傑作。極端な人物を主人公にしながら、サスペンスやユーモア、カタルシスがうまく配置される黄金のバランス。そしてダルデンヌ監督の演出手法は、まさにこの一作のためにあったのだと思わせるほど内容にフィットしていて素晴らしい。
アフリカ系やアジア系などのマイノリティが、アメリカの白人社会で成功し受け入れられるために、あるステレオタイプを演じなければならないというプレッシャーと、無意識的な人権侵害を描く作品として成立しつつ、さらに同じ人種間の猜疑心や嫉妬心が絡んだサスペンスも同時進行で描かれるという、複雑な構成に独自性を感じる一作。バリー・ジェンキンスやジョーダン・ピールの作品におけるジャンルの越境や中間性も含め、いまの表現としてとらえておきたい潮流ではある。
最近注目の、頭が良くて美人で肉体的にも優れて強いヒロインたち。どれを取っても自分とは真逆なので、感情移入が難しいのだが、二重スパイ、アナの場合もそれに近い。特に有り得ない超絶アクション・シーンは冷え冷え。この点と相まって、強さで生き残る女性に比べると、KGBもCIAも男性には物足りなさも。もっともアンヌ・パリローやミラ・ジョヴォヴィッチなど、これまでのヒロインを軸にしたベッソンの作風を考えれば、さほどのことではあるまい。その分目新しさに欠けるが。
人は生まれ変わることができると信じたいが、生まれ変わるのは相当むずかしい。ドラマはそのむずかしさが主題。変わろうとする主人公の改心のきっかけが、3人の娘を育てているシングルマザーのジュリーと知り合ったから。彼女もまた、主人公に惹かれる理由がはっきりしない。二人の恋愛関係でストーリーが進むが、要するに互いの動機づけが曖昧で、主題は明確なのに話は響いてこない。この本篇の出資を募るために作った21分の短篇「SKIN」が見応え抜群なので、平凡さが惜しい。
ダルデンヌ兄弟の作品といえば、まずぎりぎりの状態にある主人公の姿。今回の13歳少年もぎりぎりということでは、これまでと変わらない。けれど今回は、ただでさえ未熟で複雑な年頃の少年の心に、イスラム過激派の思想に心酔するという複雑困難な負荷をかけて、現実の社会と対峙させている。この負荷を回収するのは何なのか。映画は明確に提示しない。肩透かしを食ったと言うのは大袈裟だが、主役のI・B・アディの繊細な演技が主題にフィットしていただけに、結末の曖昧さが残念。
主人公ルース、養父母、教師、友人。誰も悪人ではなく、けれど個々人が抱え込んでいる敵意が徐々に露わになり、一見、無関係なそれが連鎖するという展開が巧い。基が戯曲なだけあって、時系列に従った流れに、セリフの応酬による会話劇の迫力が重なり、白人の養父母と黒人の養子という環境下で人間の本質が浮かびあがる。同時に見る者は想像力も試される。俳優陣の実力が主題を支えているのは一目瞭然。特にO・スペンサーの教師が圧巻。分断の不穏さに覆われた世界を象徴する。
「ニキータ」その他、自身の過去作品をごった煮し、スパイスにエロスをひと振り、終盤はヤケクソ気味なドンデン返しを尺が満ちるまでしつこく繰り返し、マシュー・ヴォーンあたりにゃまだまだ負けんというベテランの気概を漲らせながらも微妙に野暮ったくなってしまっているやりすぎアクションシーンもまたベッソン印で、ここまでくるとほとんどセルフパロディなのだが、だからつまらないということはなく、自家中毒の果てにある清々しさを獲得したかのような楽しい娯楽映画だった。
未だはびこる黒人差別問題に差別者を主人公に据えて切り込むという試みは、差別心理をよりグロテスクに表出させるにとどまらず、改心したのちに組織から足を洗う過程に伴う苦難にもリアリティを与えているし、愛情によって暴力に打ち勝つという展開が綺麗ごとに堕ちていないのも素晴らしいのだが、彼の心情的な痛みに呼応するタトゥー除去手術描写を本線の間に何度も細切れに挟み込んでくる構成は、結末をあらかじめ提示してしまっているという意味において、僅か減点要因に感じた。
イスラム過激派の思想にとりつかれた一見気の弱そうなメガネ少年の孤独なジハードと、のちの更生過程をひたすらに追いかけるこの映画は、一度のめり込んだ者はそこから容易に逃れることが出来ないという洗脳の恐怖を生々しく叩きつけてくるも、ダルデンヌ兄弟の眼差しは冷酷なだけでは決してなく、いつものごとく執拗なまでに人物に寄り添ったカメラは、無垢な少女との出会いによって彼の心に芽生えた一筋の希望を捉えているように思う……そう思わないとあまりに残酷じゃあないか。
主人公は嘘をついているのか否か、それによって物語の風景がガラリと変わってしまうにもかかわらず真相を最後まで曖昧にすることで観る者の心のありようを問う底意地の悪さに加え、終始漂う不安定な空気はいつジャンルごとひっくり返ってもおかしくない緊張を孕んでおり、社会派を装った心理サスペンス、ことによってはホラーかもしれない、などと観客を振り回すこの重層的な構造そのものが「偏見」というテーマを炙り出す装置になっていると考えると、なんと恐ろしい映画であろうか。