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ワークショップを経てキャスティングされた少年少女はみな、中学生特有の凶暴さと残酷さを体現した演技をしていて、作品が放つ生々しさに大貢献している。同級生を殺した少年が、証拠不十分で不処分になったときに見せる、隠しきれない目の輝きと口元の0・1ミリの緩みを、いったいどうやって引き出したのだろうか。挑発的でダイナミックな語り口が緊張感を保ち、扱われる問題が何一つ解決せずに終わることで、観客にバトンを渡す。作り手の使命感が伝わる骨太な力作。
ロケ地の特徴を最大限に生かした人物の動かし方に、この土地で撮る意味を感じた。兄の葬式のために数年ぶりに帰省した主人公を起点にした、説明しすぎないやりとりから、登場人物の過去と現在が次第に浮かび上がる構成も、彼らへの興味を牽引する。ところが、中盤で明らかになる主人公が抱える問題のナイーヴさと、「女性=海」というイメージを背負わせた強引な幕引きに啞然。ヒロインをミステリアスに仕立てたいのだろうが、それ以前に、主人公が彼女を好きな理由が謎。
アウトローの視点から語られる戦後の昭和クロニクル。某銀行への糞尿撒き散らし事件やオイルショックなど、実際に起きた出来事をフィクションに織り交ぜる試みは面白い。だが、多くの人物や事象を媒介する主人公が弱い。カメラワークは良く言えば硬派でストイックだが、悪く言うと平板で艶っぽさがない。結果、手のひらから時間がサラサラとこぼれ落ちていく146分。ホステスから頼もしい姐さんになっていく紅一点が、主人公にとって以上に、映画において大きな存在感を示す。
性同一性障害と診断された主人公を撮影し始めたとき、制作陣はまさかこんな結末を予想していなかっただろうな、という驚きのあるエンディング。主人公を15歳の頃から9年にわたって追いかけた本作は、その9年間におけるセクシャリティの細分化とそれを取り巻く環境の記録にもなっている。「何が嫌なのかわからなかったけれど、性同一性障害を知ってすべてがしっくりきた」と主人公が言うように、人は知識によって救われる。すべての中学生に観てほしい教材ではある。
元受刑者の話だと、自分の罪を反省している受刑者など皆無。したとしても、捕まるようなヘマをしたとかの反省がほとんどらしい。この映画でもやはり仲間を殺した少年は最後まで反省しないし、親は息子を都合よく無実だと信じ続けている。その愚かさ、猛々しさをこそ見せたかったのか。なぜこの少年は仲間を殺したのか。殺した上に証拠隠滅もしている少年はなぜこんなに凶悪になったのか。親や生活環境のせいとも思えない。だから少年をどう理解していいのかわからない。
三方を山に囲まれた、朝陽が差さない海沿いの町。そういう舞台と聞いただけで、もう何かの人間ドラマを予感させる。優秀な兄が死に、葬式のために故郷に帰ってくるダメな弟。兄の死後も淡々と漁師を続ける父親、兄から精神的に逃れられない元兄嫁、両親を火事で亡くした幼馴染の少女は足が悪く、その兄に呪縛されながら生きている。みな死に囚われている。兄は自殺だった。そして弟と愛を交わした少女も……。理由は定かにはしないが、ありありとそれが心に浮かぶのだ。優れた映画だ。
石川力夫のことが頭に浮かんだ。言わずと知れた深作欣二監督「仁義の墓場」のモデルになった実在のヤクザだ。仁義に背いて狼藉の限りを尽くし、最後に刑務所の屋上から飛び降りて死んだ。辞世は「大笑い三十年の馬鹿騒ぎ」。8年ぶりというこの映画、井筒節は健在だ。井筒氏ならではの諧謔! 主人公のヤクザは石川とは真逆のしごくまっとうな人間に見える。たまたまヤクザになった普通の人間の半生はそのまま日本の戦後史になり、歴代のヤクザ映画へのオマージュになっている。
イランの前大統領は、イランでの同性愛者への迫害を批判された時、「イランに同性愛など存在しない」と言い切った。珍妙である。多様性こそ人間のアイデンティティなのにね。性同一性障害は同性愛とは違うものではあるが、生きづらいことには違いない。心は男、体は女。この若者を15歳から9年間も追った監督の執念と若者への愛情に感銘を受ける。様々に生き方を模索する若者が愛おしいし、それを受け止めている母も素晴らしい。だが、純に映画として観ると何かが足りない。
いじめの延長で同級生を殺してしまった少年(たち)が少年審判で無罪になってしまう。彼を許してしまう制度自体を問う社会映画ではない。かつていじめられっ子だった主犯少年を擁護するあまり彼を罪に向き合わせない母、事件を餌食にするネット民や正義を振りかざして糾弾署名集めまで始める優等生生徒といった周囲に揺れ動く主犯少年の葛藤がメイン。それでも彼が自身の罪と向き合うまで見たかったし、後半のいじめられっ子少女はその契機となるはずだったのではと、惜しく思う。
監督はPVを撮ってきた人というが、撮影、照明、録音などの技術においても、主人公の兄の死の謎を核として、徐々に人間関係や過去を明るみに出してゆく脚本の構成においても、さすがに映像で食ってきただけのことはあるクオリティ。ただし、主人公の兄の死の原因もあまり明確ではないし、そんなものはどうでもよくなるほど主人公の現在のドラマが濃いわけでもないので、何かいわくありげな人物たちを雰囲気で処理しているかに見えなくもない。脚本をもう少し掘り下げて欲しかった。
ヤクザ映画というよりは、戦後から昭和の終わりまでを生きた男たちの群像劇と見るべきなのだろうが、時代を描きたいのか人間を描きたいのか、どっちつかずで結局何物にもなりえていない。主人公が偶々見かけたいい女を妻にする。しかしその偶々を必然にするのが映画ではないのか。偶々が偶々のままで単なる役割に終始するなら描く意味はない。一事が万事その調子で、要は思想がないので、人間にも出来事にも必然性が感じられず、それっぽい場面場面が連鎖するだけに見えるのだ。
性同一障害と分かって以来、その解消に突き進む前向きな主人公、その性格の強さが映画を牽引するだけに、手術を終え、戸籍も変えて「男」になったその後に、いや「男」でもないなと気付くのは衝撃で、性別にはグラデーションがあるという主題が説得力を持つ。XジェンダーというのはLGBTQのQに当たるものか。性同一障害に関しては個人レベル、社会レベルのアプローチがあり、前者の方を選択したこと自体は是とするが、主人公に肩入れしすぎてプロモ的に見えるのは少し辛い。