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現実統覚がまだらになった老齢女性が自宅からアンティークの置物、家具調度類を庭へ運び出してガレージ・セールを始める。現在と過去、死んだ人と生きている人、虚と実が入り乱れ、からまり合い、散乱した家財を配置し直して一つの人生を浮かび上がらせようとするも一筋縄では行かない。フェリーニの幻想味、ブニュエルの諧謔、と数え上げながら迎えたラスト・シーンは、およそ予測不可能な驚愕の展開で、こちらの映画史的記憶のすべてが破片となって飛び散った。
ブルース・スプリングスティーンの音楽を心で燃焼させながらパキスタン系英国少年が思い切り青春するこの映画では、単に音楽がドラマを伴奏する(劇伴音楽)のではなく、映像が音楽の挿絵となる(ミュージック・ヴィデオ)のでもなく、音楽が現実に溢れ出してしまう(ミュージカル)のでもなく、そのすべてが一度に起こって要するに至る所で音楽が映画を乗っ取ってしまう。何よりボスの歌声がそこで鳴り響いていることが第一の現実で、映画が、人生がそれを追走するのだ。
語り方を工夫しすぎてなにかたどたどしく、コメディ演出はすこぶる泥臭く、何を描くにも手間暇かけすぎてこれしきの内容に2時間23分もかかった。だが、その程度の欠点ならどさくさまぎれに許してしまえるような勢いが、高度成長期のインド映画にはあって、ラストまでいったら結局は泣いてしまうのだろうな、と予感させられるのが悔しく、そしてやっぱりその通りになってしまう。人物の一人一人が可愛いから。ただし、最後のミュージカル・シーンは私は断じて要らない!
死期の迫った女優が愛する家族や友人を呼び集めたのが、ポルトガルの世界遺産の町シントラなのは、彼らが皆故郷喪失者だから。彼女の病を知る者も知らない者も、この地の聖なる光の中に佇み、向き合い、並んで歩き、語らい、風に吹かれ、共にいられる残り時間をそっと嚙みしめている。ラスト、山頂に集まった人々の超ロング・ショットに永遠が見える。目に映るすべてが生を寿ぎ、音楽を奏でている。海辺はエリック・ロメール、坂道はヴィム・ヴェンダースのよう。
ベッドでまどろむ老女の、たるんだ二の腕や、かさついたかかとのヨリで、過去から現在への推移をはっきりと見せる冒頭から引き込まれて、時が経つのを忘れるほど物語に集中していた。なめらかな編集は、過去ではなく、過去の記憶にウェイトを置く作品世界にマッチしている。過剰な説明がなくても、走馬灯のように自身の人生を回顧する、主人公の心情が伝わってくる。象のからくり時計など思い出の品々もドラマチック。C・ドヌーヴは白髪姿だって素敵だ(花柄ワンピもお似合いで!)。
ブルース・スプリングスティーンの音楽を聴くことで、自分の世界が広がっていくジャヴェド少年の変化を、隣に住むエバンズ老人や幼なじみのマットらとの、身近な関わり方を通して見せるさりげなさに好感。特にモリッシー好きのマットとの率直な仲直りは、羨ましくなるくらい爽やかだ。ジャヴェドの父も、わからずやの頑固親父と見せかけて、妻を愛し、子供を思う大人物であることを、じんわりとわからせていく展開もいい。「ベッカムに恋して」(02)のチャーダ監督が、大いに腕を振るう。
あえて(?)芝居ではなく脚本や編集で日めくりカレンダーのように時間経過を見せる手法は最近(特に日本の作品)の流行りだろうか、あっさりしすぎて物足りない。本作のオープニングに、すわインド映画もか!? と落胆するも杞憂に終わった。エンディング・ソングの見事な転調の如く、緩急の効いたダイナミックな展開に、143分間はらはらドキドキしっぱなし。中でも、バスケットボール大会決勝戦の、ラスト6秒には大興奮した。大学生と中年を演じきった俳優陣の巧さにも感動。
映画の舞台となる、ポルトガルの避暑地・シントラの町が魅力的だ。主人公フランキーがあてどなく彷徨う深い森、フランキーの家族や友人たちが、まるで人生の迷子になってしまったかのように往来する、迷路のような路地、神聖なるペニーニャの山から見渡す広大な海。ゆたかな緑の中をマイペースに散策しながら、愛する人々との交流を慈しむフランキーと、リンゴの浜でフレッシュな恋にときめく孫娘マヤの、のどかな佇まいが好対照だ。シューベルトやドビュッシーのメロディも心地よく。
数年前、どうせいつか死ぬからなぁ、と突然思い立って長年集めた趣味の収集品を処分した。なので、冒頭のドヌーヴ扮する老婦人が自分の死を悟り、アンティークのコレクションを二束三文で売りに出す行為は何となく理解できた。彼女の「最後の一日」が、記憶とも妄想とも取れる娘との“過去の断片”を軸に描かれるのだが、それぞれの視点からの解釈と紐解き方が絶妙。人は死に、想いは正確な形を残さないで消える。残った「物」だけは真実だが、それ自体も永遠ではない、という儚さ。
パキスタン移民の少年ジャヴェドはB・スプリングスティーンの曲に救われ、彼の大ファンになるが、同級生にバカにされる。私は登場人物たちと同世代だが、確かに80年代末、彼の曲はすでにおっさんが聴くものだった。それでもジャヴェドの高揚は、自分にはじめて好きなミュージシャンができた時の感覚を蘇らせた。そして“死ぬまで生きろ”というスプリングスティーンが放つリアルなメッセージは、厭世的な空気の中にいる今、直球で突き刺さった。血が通っている詩は普遍だ、とあらためて。
お気楽な学園コメディと思いきや、いきなりシリアスで衝撃的な展開。そこから現代と92年の名門工科大学寮での青春の日々が交錯して進む。寮内に格差があり、主人公たち「負け犬」組は寮対抗多種目試合に挑むのだが、これがサッカー、バスケの他にチェスやキャロムもあるというのが面白い(監督の実体験がベースらしい)。しかし合格者1%のこの大学に入れること自体すでに超エリート。その違和感が現代パートに活かされ、ヒエラルキーの構造を浮き彫りにしている。
有名女優が自分の余命を伝えるために集めた家族や友人たちはそれぞれのパートナーとの問題、秘密を抱えている。役者の自由な動きを重視した全篇クローズアップのない引いた画の長回しとシントラの素晴らしい風景の俯瞰ショット。アレンの「ハンナとその姉妹」、ロメールの「海辺のポーリーヌ」などを彷彿とさせるその構造と撮影スタイルは、演技巧者たちの競演を存分に堪能させてくれる。ラストカットは、奇跡的な(計算と忍耐の賜物か)美しさで、何も語らずにすべてを集約する。