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米南部である男を冤罪に陥れた捜査の杜撰さ、裁判の不正義、非道、度しがたい偏見、あまりの悪意に、身を震わせるような怒りが湧き起こり、その怒りがこれが映画であることを忘れさせる。我々を感動させたのは「映画」ではなく「実話」であると思ってしまう。だが、まさにその透明さが、これが比類のない映画であることを証明している。素直に泣き、怒り、喜んでいるうちに、こちらの顔まで凛々しくなっている。ラジオから聞こえるブルースやゴスペルが玄人好み。
元気一杯、声が大きくて、しつこくて、見終わると暴れん坊の子供達をかかえた親のように疲れている。何を仕出かすかわからないので目を離せないが、結局大したことにはならずにホッとする。ん? これは褒めているのか、貶しているのか? まっすぐの道や通路の交点に自分がいて、遠くから何かが少しずつ近づいて大きくなってくる。という趣向もここまでやられて、そしてあんなものが出現すると色んな意味で腰を抜かす。いやずっこける。子供はこの映画大好きだと思う。
ジュディ・ガーランドは20世紀の芸能界の至宝であって、レネー・ゼルウィガーがいくら頑張って物真似してもそれは到底ジュディではない。〈虹の彼方に〉を伝説のシャンソン歌手よろしく歌い崩しても貫祿不足は否めない。「アリー」のレディ・ガガはなんと性根のすわった歌唱を聞かせていたことか。少女期のジュディの大写しの顔で映画は始まるが、同時に映画が鼓動を始めるような、これは見事なショット。ジュディはクロースアップのまま歌い切ることができる希有の歌手だった。
確かベンヤミンが「映画は建築に似ている」と言っている。どちらも当り前のようにそこにあって、空気のように人を包み込む。片や生活の舞台をデザインし、片や役者が演技する空間を造形する。共に場所を、そこに身を置く人にとっての「世界」を創り出す。空間を吹き抜ける風に相当するのは、映画では音、音楽だ。遠い列車、空気のような音楽がこのフィルムを光のように満たす。主人公が好きな建物の話を始めると、不意に無声となって音楽がかぶさる。この映画、好きな場所だ。
死刑囚監房内で、死ではなく、生きることを考えるのと同じく、司法制度に逆らって正義を貫くことは過酷である。しかし、M・B・ジョーダン扮する本作の主人公ブライアンはあかるい。彼の陽気さには、原作(ブライアン本人が綴った奮闘記)に因れば、母に連れられて通った教会音楽の力が大きかったのだろう。本作でも、聖歌隊の思い出や〈The Old Rugged Cross〉をはじめ、神々しい賛美歌が、ブライアンに希望を贈り、死刑囚ウォルター(J・フォックス!)を創造的に変えてゆく。
なるほど、子供の頃に読んでいたら、間違いなくトラウマになっていたであろう“怖い本”をG・d・トロ監督原案&プロデュースで完全映画化。特殊メイク業界最高のスタッフが集結し、再現されたモンスターの数々(いちばん怖かったのはルースのエピソード)、ベローズ家の荘厳な幽霊屋敷等、視覚的に“おどろおどろしい”世界を完成させた。実世界に居場所がなく、物語世界に迷い込んでゆく(しか術のない)少女ステラの切実さも、シックスティーズのなつかしい世界観に合っている。
『オズの魔法使い』の訳者あとがきで柴田元幸氏は、ドロシーの魅力を、原作者にも通じる「アメリカ的価値」を体現した「明るい天真爛漫さ」と指摘したが、ガーランドも真摯なエンタテイナーだったのだろう(観客との間に愛が生まれたラストステージの感動!)。最後に引用される言葉は、映画版(39)でオズがブリキの木こりに言った台詞だが、心ない大人たちの呪いの言葉で、自分を信じる心を弱めた彼女の物語の結びには切なすぎる。優雅でもろいヒロインを、ゼルウィガーが繊細に表現。
計算された構図、無音の使い方、巧みな編集、随所に小津安二郎監督の気配がある。いつの間にか自分の人生の探求をやめて、母との生活に満足しようとしていた少女の前に現れた旅人。美しい建物について、平易な説明ではなく「君が感動した理由が聞きたい」と言ってくれる(ロマンチックなシーン!)他者との出会いから、柵を越えて育まれる二人の関係そして少女の自立を、緑と雨の豊かな街が祝福する。「非対称ながらバランスを保つ」少女ケイシーをH・L・リチャードソンが好演。
無実の罪で死刑宣告をされた平凡な黒人の男の実話。証拠が一切ない、明白な冤罪がなぜ立証されないのか、というもどかしさ。彼の弁護を黒人の若き弁護士が引き受ける。ほとんど勝ち目のない理不尽な戦い、その裁判のためのやり取りの中で、弁護する側される側を超えた関係が確立していく過程が熱い。最終判決のあっけなさのリアリティ、そしてこの事件が今も続く黒人死刑囚の冤罪のほんの一部の例、という事実。それらが法廷劇のカタルシスを超えた余韻を残す。
映画好きであれば誰でも子供の頃観てトラウマになっているホラー映画のシーンがあると思うが、私の場合は「ポルターガイスト」の顔を洗っていたら皮膚が剝がれていく場面がそれ。本作は、児童文学の映画化ということで、そういった子供心に忘れられない恐怖シーンがてんこ盛りだ。もういい大人なので、そこまで怖がることはなかったが、後半、プロデューサーのデルトロらしい恐怖と笑いが一体となった悪夢のようなシチュエーションがあり、それだけでも観る価値はある。
冒頭から素晴らしく、ジュディ・ガーランドが生きているショービジネスという金と魔法が入り交じった混沌世界にすんなり入り込んでしまう。彼女の晩年、その数週間を切り取った作品だが、彼女の「47年の人生」が凝縮されている。レネーは、まさにジュディに憑依、ドキュメントと錯覚させるくらい真に迫っていた。中盤のゲイのカップルとの交流は、おそらくジュディがLGBTQの人たちのアイコンだったことからの創作だが、彼女の背景、そしてクライマックスに見事に繋がる。
監督のコゴナダは、ブレッソンやヒッチコック、そして小津の研究者でもあるので、構図、人物造形、構成など、シネフィル的な要素に満ち溢れている。それが鼻につかず、楽しめたのは偏に「愛」が感じられるからで、舞台がモダニズム建築の宝庫、コロンバスというのも大きい。登場する数々の美しい建造物は雄弁で、「不在」を意識したこの物語の主役といっても良いくらいだ。そもそも建築と映画というのはその構造が似ているので相性は良いのかな、と(制作現場は〇〇組だし。笑)。