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「映画のラストは必ず観客がそれまで見たことのない風景を見せなければいけない」と言ったのはトリュフォー。本作品のラストではかの名作「シャイニング」にたっぷりと再会させられる。血の代わりに生気を吸う(意味論的には同じ)ヴァンパイア族と、おなじみシャイニング(超能力)をもった主人公らが死闘をくりひろげる戦いの映画として、これは十分に、抜群の面白さで成立している。なぜ名作の続篇たろうとするのか? この続篇は画龍点晴ではなく龍頭蛇尾である。
二人の人物が投げ合う大量のセリフが、ある時はねっとりとからみ合うように、ある時は口角泡をとばしながら、ある時は一見些末なことをめぐって蜿々と、いわば言葉と言葉がしのぎを削る、これは対話の、議論の映画。この言葉の劇というか、言葉を介してぶつかり合う情念の劇によって、背景に置き忘れられた風景の寒々とした佇い(アンゲロプロスのよう)に打たれる。二種の結末を両方とも放置したまま終わる(エドワード・ヤン風の)突き放したエンディングに唸る。
台湾布袋戯(人形劇)の最後の輝きをとらえたドキュメンタリー。初めに人形遣いをめぐる映像がある。人々が様々な言語で喋り、そこへ最小限のナレーションが付く。やがてそれらは背景へ退き、代わりに手が、人形が、地の上の図として浮き上がり、人形が言葉のようなもの、生きている記号となって辺りを静まり返らせる。この時の背景がたとえようもなく美しい。黒子を消すのがアニメ、人形劇なら、皺くちゃの黒子にこそしみじみと見入ってしまうのが映画なのだろう。
「いつ死んでもおかしくない」と宣告された老嬢が、要するに一人で終活する話だが、その中味がいちいち素っ頓狂で頓珍漢で苦笑をさそう。でも本当に素敵なのは、老嬢が物事を一つひとつ折目正しく進める故ののどやかなスロー・テンポ。だが巧みな編集で少しも弛まない。そして黒ずんだ木造住宅、ウォッカの透明さ、居間に鎮座する棺桶、盥の鯉といった乙なディテイルにロシアが香る。現代風のボリス・バルネットか、ウォッカを毒と見立てればロシア版「毒薬と老嬢」か。
前々回「IT/イット THE END」の評に、冒険は子供の方が似合うと書いたが、ユアン・マクレガーの存在感には前言撤回せざるを得ない(「プーと大人になった僕」のC・ロビン役でもその威力を発揮していた!)。父親と同じくアル中の中年になっても、5歳のダニー少年同様、特殊能力“かがやき”の似合うこと。「ドクター・スリープ」としての活躍より、少女アブラとの冒険の方がいきいきと見える。二人の敵トゥルー・ノットには「シャイニング」とは異なる恐怖があった。
読まれなかった息子の小説も、不毛な父親の井戸掘りも切ない。妻に愛されながらも、犬が唯一の存在と断言する父も、田舎のカフェで一人佇む祖父も、みな歪な野生の梨のようだ。自分勝手で弱くて、矛盾だらけで、近親憎悪的にイライラしながら渋っ面を見つめるうち、3時間経つと登場人物たちが愛おしくなっていた。彼らの言う通り「現実はひとつじゃない」し「時の流れは速い」。最後、息子を父の元へ誘う黒い犬と、バッハ〈バッサカリア ハ短調BWV582〉の余韻。豊かな映画だ。
初めて見た、台湾の伝統芸能「布袋戯」の、繊細な人形の動きに魅了された。布袋戯についての知識が乏しいため、芸能の歴史と消滅の危機に瀕した現状、家を継ぐこととそれに伴う親子の葛藤など、盛りだくさんの内容がうまく消化できず、無念。エンドロール直前、正しく記録させようと「急げ」と言いながら何度も実演してみせた陳錫煌のエピソードからの「人なら磨きあげろ!」とロックな主題歌の勢いのよさに、肝にすべきはここだったのでは? とも。10年の間に、編集点がぼやけたか。
独り暮らしの老女=淋しいという既成概念の枠から飛び出した、主人公エレーナにワクワクする。“息子のお荷物にはなりたくない”との切ない動機は胸のうちに秘め、自分のお葬式計画をてきぱき遂行する姿はいきいきと楽しそうだ(戸籍登録所での、結婚式や赤ちゃん柄チョコレート賄賂のモチーフもエッジが効いている)。「全てが単純だった」昔とは違ういまも、頑張って生きる彼女とすれ違ってばかりの息子に、同じ思い出に笑う、幸せなひと時があったことが、我が事のように嬉しい。
原作者のキングがキューブリックの「シャイニング」を「エンジンの積んでいないキャデラック」と評したのは有名な話だ。本作はその続篇だが、かなり気を使って“エンジン”を積んでいる。ダニーをはじめとした超能力者たちの悲哀に満ちた独特の世界がさらに深掘りされ、謎の狂信団体との超能力合戦が描かれるのだが、そのB級っぽさがキングの魅力であり、キューブリックが排除した部分だ。しかし本作はキューブリック版ファンを意識した仕掛けもあり、監督は気遣い疲れしただろう。
「何者か」になるため作家を志す大学を出たばかりのシナン。作家で食べている地元のおっさんにナメた態度で偉そうに持論を述べ、相手を怒らせる。どの時代、どの国、どのジャンルでも見られる光景だ。シナンの父親は教師だがギャンブル依存で村人たちの信頼を失っている。短篇連作と見まがうくらい各シークエンスが長く、トータル3時間以上あるが、全てはその誰からも相手にされない親子が繋がるために必要な「物語」だったことが最後に明らかになり、静かに胸が熱くなる。
冒頭から80歳を超えた陳錫煌の一挙手一投足に釘づけだった。台湾の伝統芸能「布袋戯」を代表する人形師で、人間国宝でもあるのにもかかわらず、彼は常に葛藤している。父であり師、伝説的な人形師・李天祿の死してなお圧倒的な存在、そして「布袋戯」の変化と衰退の実感が彼を焦らせ、行動へと突き動かす。その10年間の記録だが、老体に鞭打っているようには全く見えない。アーティストは死ぬまで己と対峙して青春するんだな、と思った。そして男は死ぬまで「息子」なんだな、と。
生ある者は必ずいつか死ぬ。めんどうくさいのは、他の生き物と違って、人間だけはその死への過程を意識して生きている、ということだ。73歳のエレーナは、余命宣告を受けて、多忙な息子に迷惑をかけたくない一心で自分の葬式のための準備を始める。それは客観的にはユーモラスな行動だが、死をめぐる人生の残酷な一面としても捉えられる。若い頃聴いていた〈恋のバカンス〉を流し、その当時の服を着て化粧を自ら施したエレーナが部屋で一人踊るシーンが、可笑しくも切ない。