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ストックホルムで学校ストライキ、国連で熱弁したグレタ・トゥーンベリさんが記憶に新しい。なぜかくも若者たちが地球環境を危惧するのか。この作品もそのような若い戦士の数年を追う。彼らは環境問題を等閑して、「進歩という神話」を信じ続けている大人社会そのものへ牙をむく。特定の大人たちが操っているとも囁かれているが、トランプをはじめ政治家や経済人の「物語」を別の「物語」で非難。これは環境問題を宙吊りにし、大人VS子供の生理的でヒステリックな代理戦争なのだ。
「グラン・ブルー」で一世風靡したジャック・マイヨール。バブル期の代理店が飛び付くような解りやすい捉え方ではなく、度を越した奇人ぶりに焦点が当てられる。結果、極度の人たらしは人間を通過しイルカまで魅了したという結論に至るだろう。登場する写真家高砂淳二氏は「哺乳類のみが遊びをする」と。ホイジンガも人間をホモ・ルーデンスと定義した。「映画を作る(見る)」という行為もまた非生産的な遊びの極致だ。イルカとの対話とは永遠に解明され尽くせない遊びの神話だ。
まるで見世物小屋一座の家族愛に満ち溢れた実話。名付けることや分類されることを拒否する唯一無二な家族形態。しかしこの固有性を突き詰めることで見えてくる有史以来の家族の普遍性と見世物の本質。マイノリティ性を認め最大限に尊重することは生きることへの尊厳へとつながる。家族の依存と自立を描く成長物語。暴力の見世物という一見本質的に異常でありながら感動してしまう感情は、それがあまりにも健全で理想的だと認めてしまうからであろう。この家族愛に嫉妬した。
伝説の車をデザインした変人の半生。日本の自動車メーカーのように無名の企業戦士たちが一台の車を作り上げる構造ではなく、スーパースターが英断でネジから塗装まで全てに責任を持つ。これはデロリアンという英雄の物語ではなく、その人物の生き方が許された、求められた社会の物語だ。ヴィークル(乗り物)を「どこかへ行く」ことではなく、「乗ること」が最大限の目的として考えられたとき、「手段」と「目的」という人類史に横たわる攻防は社会を映し出す戦場と言える。
悩ましき問題提起だ。気候変動を解決したい人々の多彩なアクションがノリの良い映像で次々紹介される。エネルギー企業と戦争・テロの資金関係、IT企業のデータセンターによる熱排出など耳新しい憂患も示す。居直るトランプは醜く、力強く叫ぶ気候戦士たちは美しい。しかし彼らはどこまで正しいのか。すべては試行レベルで、何が有効で個々の手段がどう結びつき、いつ、どれだけ成果が出るか明解な答えはない。事例の列挙だけでなく、よりロジカルな主張をしてほしかった。
三十余年前「グレート・ブルー」をデートに使った世代にとってJ・マイヨールは身近な存在で、本作を懐かしく感じても新味や驚きはない。時を経て増えたであろう彼を知らない人々に、この映像評伝は正攻法でタイトにまとめられた良作に映るだろう。でも私のような知りすぎたゴシップ好きには物足りず、本作の優しさはDVD特典映像が相応かとも思える。性悪な所見だが、マイヨールの私生活とスキャンダルをもっと追究してほしかった。悪趣味でもこれは商業作品なのだから。
私は90年代から00年代にかけ弱小プロレス団体にハマった人間なので、どインディー選手の成功物語には特別な感慨があり、ヒロインの出身団体がドサ回りする会場の雰囲気や画鋲デスマッチが懐かしくジンときたので★ひとつオマケ。監督の本領、下品ギャグが連発される序盤は大いに笑えたが(監督は出演場面で目立ちすぎだよ。仕方ないけど)中盤以降は紋切り型な落ちこぼれ成長ドラマになり、結末もあまりに性急で単純。結局WWEがコントロールしたプロモ映画だったかと落胆。
全篇を懐かしいディスコ曲が華やかに彩るが、DMC−12開発者の輝ける日々でなく、金欠の最暗黒時代を意地悪に描く実録コメディ。主要キャラが全員クズ、ことデロリアン役のリー・ペイスが内面の幼稚な自信家という複雑な人間を無表情かつシニカルに演じ、現代のIT企業社長に通じるインチキ臭さを匂わせ最高だ。なかなか出ない本物のDMC−12の登場は絶妙かつ象徴的で爆笑するものの、いい歳したガキどものみみっちい欲望交錯劇のせいかドラマへの吸引力が今一歩。
地球全体で環境破壊を止めることが喫緊の課題であるのはよくわかるし賛同する。だが本作は気候変動阻止を訴える活動家たちの、言葉だけをひたすらつないだ作品となっている。作り手自身の表明や具体的に何をどうしたいという能動的行為はなく、茫漠として聞こえる総括的な目標のみが断片的に続く。監督は気候戦士の姿を切り取ったドキュメンタリー制作で何かしらの達成感はあるかもしれないが、構成編集ともに単調極まりなく、ただ単にオピニオンの垂れ流しに過ぎない。
マイヨールが潜水し海の哺乳類たちと同化したい皮膚感覚が、映像や残された言葉から伝わってくる。海に潜る孤独、水圧による急激な身体の変化という苦しみに耐えても深海のしじまには魅力があることも。映像資料が残っているのも強みだし、マイヨールがかなりの変人でアクの強い個性を持つ、風変わりな人生を送った、素材としての面白さも大きい。ただそういった素材の羅列で分析にまでは至っていないため食い足りなさは残る。作り手の主観が少々混じってもいいのでは。
S・マーチャントがこんな器用に娯楽映画を作るとは! プロレスの実話に基づくコメディだが、ベタでなおかつ自由な創意がある。イギリスの労働者階級の実情とアメリカでの厳しいトレーニングという、異なる問題がバランス良く描かれる。イギリスの若者が抱えがちなトラブルと、スポーツ物での主人公の挫折と再起といった、王道的物語が無理なく展開して清々しい。主人公を見守るV・ヴォーンの佇まいも良いし、製作を担当するD・ジョンソンの映画センスはいつも通り抜群だ。
ジョン・デロリアンのきな臭さと数奇な出来事を辿る映画だが、盛り上がりに欠ける冗漫さを感じる。主役はむしろ、麻薬密売の罪と引き換えにFBIの情報提供者となったジム・ホフマンなのだが、演じるジェイソン・サダイキスはいまいち愛嬌が足りない。デロリアン役のリー・ペイスも表情に乏しく、感情面での抑揚のなさに退屈を覚える。切り刻んだ法廷場面は脈絡を失っており、スキャンダラスな実話ベースでも覇気のない作品が出来あがるという不思議な見本のようだ。