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殺人鬼のヒロインが魅力的で、彼女が天真爛漫に人を殺す理由が知りたくなる。すると、「なぜ人を殺してはいけないのか?」といった素朴な問が投入され、彼女に恋する人生経験不足の青年と、人心がわからない快楽殺人者のヒロインが、答えを出そうとするが嚙み合わない。そんな2人が迎える「死にたいくらい(殺したいほど)愛してる」というフィナーレに陶酔。青年がヒロインの手料理に感動するシーンで、出来合いの揚げ物を使っていたのが残念。揚げるカットを入れるべき。
家族の死、罪、崩壊、再生への祈り。シリアスでヘヴィな内容は息苦しく、そして説教臭くなる恐れがある。しかし本作は、演出も映像も音楽も仰々しくなることなく、できる限りそこにあるものをそのまま映しているからか抜けが良い。主人公の少女、父親、担任の教師など、芝居を感じさせない演出と撮影も成功している。ゴッホの人生、キーアイテムとなるひまわり、ダウン症患者、被災地への想いは、監督のメッセージを読めば伝わるが、映画には落とし込めきれていない。
本篇の約7割を占めるアダルトDVDのメイキング映像には、準備不足なのに見切り発車した先の地獄絵図が赤裸々に映し出されている。トラブルシューティングがすべて村西監督の応酬話法、しかも言行不一致のため、現場に不満が蓄積していく。この舞台裏の記録は、AVやこの人物に関心がなくても、集団で仕事をする人には有益かも。本人インタビューで語られる、そんな状況でも心が折れない理由は“ザ・人間”という清々しさ。絶対に一緒に仕事をしたくない人だけど。
「30歳まで童貞だと魔法使いになる」という伝説を、“中年負け組バディの大逆転”という胸アツコメディに昇華。冒頭のアニメーションの昭和感、お手製のヒーローコスチューム、目から出るビームや空飛ぶホウキなどのCGの完成度のほどよい低さなど、アナログ味のあるヴィジュアルがトータルでバランスがとれている。「ささやかなアフリカン居酒屋」のような突っ込みたくなる台詞もクスリとさせる。ただし、クライマックスでのヒロインの血反吐大噴射はやりすぎ!
何を作ろうとしたんだろう。いや、何を作ったつもりだったんだろうか。ジャンルを問わず、メジャーやマイナーに関係なく、映画は人間を描くもの。ぞんざいな人形を描くものではない。やたら血しぶきが出てくるが、殺人少女もその隣人の少年も、体に血が通っているとは思えない。ホラー映画のつもり? 良いホラーにはエレガンスがあると知ってほしい。究極の愛? 人間が出てこない映画では、愛を語れない。特異な世界観を打ち出すのはいいが、最低限のリアリティくらいはほしかった。
確か三島由紀夫いわく、「芸術というものは世の中に毒をまき散らすことにほかならない」。毒を承知でまき散らすのはともかく、薬だと言って毒をまくのは犯罪である。そして自覚もない時にはなおさら罪深い。いたいけな少女がむごい罪を犯し、それを心を病んだ叔父になすりつける。が、それを親は、なかったことにさせてしまう。この少女の行く末を思うとやりきれない。彼女は償えない罪を一生背負って生きていくのだ。少女も我々もひまわりがいくら咲いても決して心を癒されない。
ゴジラが出現したちょうど30年後の84年、村西とおるがAV監督として世に躍り出てきた。モンスターだった。ロマンポルノをやっていた我々は彼の一撃で粉々に吹っ飛んだ。が、バブル崩壊と共に村西は消え、日本は多くのものを失い、その代わりに妙な言葉が定着していった。コンプライアンス、ガバナンス、ハラスメント、そして英語に訳しようもない忖度。つまらない世の中になった。その村西が蘇りつつあるという。この映画はその予告と思いたい。やがて哀しきモンスターに幸あれ!
こういう映画はわりと好きなので期待したが、それに応えてくれたとは言いがたい。コメディとして作ったのだろうが、笑わせよう笑わせようとあがく様が痛々しい。延々と親父ギャグを見せられているようで、鼻白んでくる。良き笑いは、「思わず笑ってしまう」笑いなんだと思う。笑いをかもすシチュエーションの中に不如意なキャラクターを置き、真摯に生きさせれば笑いは自然に湧いてくる。コメディは、意図的に笑わせようとしてはダメなのだと改めて知らしめてくれた。
壁に空いた穴から覗くと隣の美少女が殺人鬼。そんな壁の薄いアパートで殺しの仕事かと、設定自体も緩いが、以後の展開がまた緩い。殺しに何の痛痒も覚えない、いわばニーチェ的超人たるオオカミと、群れて生きるしかない凡庸な道徳観念の羊の対決。羊がオオカミの倫理観を問う試金石たりえてもいないのに、何故オオカミがオオカミたることを止めるのか。「恋」だからしょうがないにしても、その選択で何か新しい倫理観、世界観が獲得されるわけではないのはどうか。
ダウン症の妹を事故で死なせ、その責を伯父に負わせる姪。伯父はフクシマの惨状を目にして精神障害を負ったという設定。彼が罪を負い、贖罪のヒマワリの種をまくという形で聖人化されることで、姪の罪も何だか原罪のように深刻めいて見える。フクシマだのダウン症だの、(姪の)いじめだの、社会的事象をてんこ盛りにした分、それぞれについての視線は浅く、何が社会において罪なのか、救いなのか、人間の、社会の奥にまで届くような深みを獲得するに至っていない。
「全裸監督」で描かれた絶頂期以後の村西の映像だが、ドラマのヒットにあやかっての蔵出し感は否めないし、その題材である、借金五十億からの再起をかけたVシネと三十数本のAV同時撮影の現場もトラブル続きでまともに機能している気はしないしで、見始めてしばらくは辛いのだが、やはり役者のイメージが支配的な「全裸監督」よりも本人の固有性がもろに出ているドキュメンタリーでの村西のキャラは確かに蠱惑的であり、ついつい見入ってしまうことになる。
三十歳まで童貞だと魔法が使えるようになる。この発想自体は面白いのだが、しかし主人公の魔法少年二人が魔法を失い幸せに、という落ちでは、結局は非童貞の方がいいのだという結論になりはしないか。魔法=童貞力とは何か、童貞にしかないものは何か(ヒーローになりたい願望は童貞固有のものではあるまい)、を考え切っていないために、「ヤリチンが偉い」に対する童貞なりのオルタナティヴな世界観を提示しえていない。童貞文学でも読んで妄想力を鍛え直すべきでは。