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ワニでも貞子でも這って(クロール)くるものはみな恐ろしいという前半から、ハリケーンの増水によって泳いで襲ってくるものからクロールで逃げ切れという後半まで、洪水で周囲がワニ園と化した家から父と娘が決死の脱出を試みる緊迫の88分の間、主人公は死なないという信仰だけが私を支えた。自由の女神が見えたらようやく終わりだからね。もう二度と見たくない(あの家に戻りたくない)と思ったが、だとしても、だからこそ、これは紛れもない「映画」である。
日本の監督がフランス映画を撮るというすわりの悪さ(仏語に訳される前の日本語台本が透けて見える)があって、初めはなかなか波長が合わなかったが、ケン・リュウのSF『母の記憶に』の撮影が始まると、つまり「演技」が主題化されると、いきなりピンと映画に芯が通って雑念が消えた。カトリーヌ・ドヌーヴの母とジュリエット・ビノシュの娘のうち、劇中劇の筋書と反響し合うように、母の方が聞き分けのない子供みたいに見えてくる。ドルリューの音楽が合いそう。
村上春樹は登場しない。春樹を思い、その作品をデンマーク語に翻訳するメッテ・ホルムが、自宅で仕事に没頭したり、日本を旅して春樹ゆかりの地を歩いたり、仕事仲間と議論したり、まあまあありがちな場面が連なるが、日本シーンではカエルくんが空間の中にぬっと現われて、なんともいえない気持ち悪い声で日本語のモノローグを読む。春樹のわからなさ、いつまでも飲み込めない異物感のようなものが、この声に結晶したかのようだ。日本という異文化はこんな匂いがするのか。
初めに言葉ありき。案内役女性のイタリア語の語り、ゴッホやその絵のコレクターのヘレーネ・クレラー=ミュラーの手紙の朗読、専門家の解説等で編まれたテキストのイラストレーション(図示、図解)として、ゴッホの絵を中心とした何らかの映像がかぶさる。ドキュメンタリーとしては王道のつくり方だが、私にはどうしても映画というよりTVの教養番組に見えてしまう。とはいえ、確かに勉強にはなった。ゴッホが描いた(浮世絵の模写ではない)雨の線を初めて見た。
疎遠になった父親を、身の危険を承知で助けに向かうヒロイン・ヘイリーの、理屈ではない理由(動機の方が適当か)も、幼い頃から競泳に励む娘に発破をかける時の「最強補食者」という父兼コーチ・デイヴの口癖もシンプルで小気味よい。父娘と共に、ハリケーンに襲われた父の愛犬シュガー(犬かきが上手)の描写にも弱いものを守ろうとする人間味を感じる。作中のワニはほぼCG(!)だそうだが、M・アレクサンドルのカメラワークはさながら人間を狙うワニのように、スリリングだ。
ファビエンヌの庭で暮らす老いたカメの、元夫にまつわるエピソード、彼女の現パートナーがハマっている、目にもおいしいイタリア料理、SF劇中劇で描かれる、不治の病を宣告された母が、娘との残された時間をだますためにとった選択。虚構が真実を軽やかに超えていく。魔女より何より、女優は本当の話なんかしないとうそぶくファビエンヌが断然チャーミングだ。タイトルを暗示させるような庭のいろとりどりの木々が、最後にはヒロインの成熟を感じさせるという不思議。美しい映画である。
外国(日本・東京)のホテルの窓外に広がる街の夜景に映り込む、幽霊のような女性(本作が追いかける、デンマーク人の翻訳家メッテ・ホルム)のシルエット。冒頭シーンを見ただけで、ニテーシュ・アンジャーン監督が、村上春樹のよき理解者であることがよく伝わってくる。ムラカミ・ワールドから飛び出してきた「かえるくん」の声にはいささか面食らったが、メッテの旅が進むにつれて、愛猫に拮抗する存在感を発揮するのはさすがだ。ザ・ヴェルヴェッツ〈愛しのラナ〉の選曲もナイス。
展覧会や美術館で肉眼で見る以上に、カメラは、ゴッホの筆頭コレクターであるクレラー=ミュラー夫人のコレクションに贅沢に迫る。有名な自画像の、複雑な陰影の奥に光る鋭い瞳孔や、本作で初めて目にした、素描の老婆の瞳には、作中の言葉を借りれば、伝統的な美ではなく、苦痛に満ちた自然あるいは絶対的な真実(ミュラー夫人もそこに惹かれたのだとか)を追求した芸術家の野心が宿る。船頭が多すぎる(説明過多)のか、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキの存在感が希薄に。勿体ない。
製作のライミは「好きなワニ映画は『ジュラシック・パーク』(笑)。それくらい思いつかないからワニ映画代表作を作りたい」と語ったらしいが、なるほど、いや、そのシリーズを彷彿させるシーンが多かったかな、と……。巨大ハリケーンが直撃している町で家に残された父娘が脱出を図るが、逃げ出した大量のワニにも囲まれる、という設定は面白い。アジャの堅実な映像スタイルは相変わらず魅力的なのだが、シチュエーションスリラーではハマりすぎて逆に地味な印象になってしまった。
これまで“虚実皮膜”な映画を多く手がけてきた是枝監督が「映画制作」を背景に、女優の虚と実の曖昧な“真の姿”を描く本作は、終始心地良いスリルがある、軽やかで普遍的な母娘の物語だった。ドヌーヴ演じる「国民的大スター」が綴った「自叙伝」、劇中劇『母の記憶に』の撮影をめぐるそれぞれの思惑と視点のズレ。その多重な入れ子構造が見事に目に見えない「真実」を炙り出している。本作の制作自体もその構造の一部として考えると、それを自分が撮影したかった、などと妄想した。
村上春樹の小説のデンマーク語翻訳者で知られるメッテ・ホルムが彼のデビュー作『風の歌を聴け』の翻訳に悪戦苦闘する姿を追うドキュメント。猫やピンボールマシン、首都高速が出てきたり、ホルムが芦屋や上野などを訪れ、バーやデニーズで語ったり執筆したり、ハルキストにはたまらないシチュエーションが続く。さらには進行的な役割でCGのカエル、二つの満月なども登場する。その例の「パラレルワールド」に重ねるような実験的な演出は村上作品と同様賛否、好みが分かれるだろう。
ゴッホは生前認められなくて不運だった、とされているが、才能があっても死後も無名な作家がほとんどの中、資産家へレーネに「発見」されたのは幸運だと思う。彼女はゴッホ作品最大の収集家で美術館まで作った。本作はそのゴッホとへレーネの「運命の関係性」を軸に彼の作品の魅力、二人の波乱の生涯を膨大な資料を基に描いている。絵画鑑賞の醍醐味は、絵筆のタッチから作者の存在、作品の制作過程をリアルに感じられるところだと思うが、そんな肌触りのドキュメンタリーだった。