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現在91歳のルース。11歳、ナチスの脅威により単身スイスへ。決して自由ではなかったが、ドイツに残った家族は全員殺され、もしスイスに行っていなければいまの私はいないと断言。世界で最も有名なセックスセラピストは、まずは自分自身を客観視するセルフセラピーの結果に誕生した。時に強く時にユーモアと諧謔で、セックス関連の深い悩みをガス抜きし、時代や社会そのものを癒す。彼女のポジティブさは、人は過去そのものを何度でも救済し語り直すことができることを教えてくれる。
賈樟柯の集大成的かつ人間模様を描いた異色作。主人公が携帯しているペットボトル。三峡ダム。雨。泥酔。頭で砕けるティーポットのお茶。人そのものが水のように常に形態や状態が変化し固定され得ない。詩人山尾三省の「水はただ流れているだけで真実に流れることはない。私たちは本当はかつては水であり……」という一節を思い出した。終盤分割されたモニターに映し出される世界は多元的で、真実の在り処がもはや不定で同時にたくさん存在している様を露わにしているようだ。
完全に高所恐怖症の私には無理(笑)。完成直前の1974年にWTCの間を綱渡りをした男のことを思い出した。しかし昨今のYouTubeなどでの落下事故映像に見慣れた現在、74年の事実的な「出来事」よりも、視覚的な「刺激」を世の中が求めている気がしてならない。撮影監督が「落下事故を撮影してしまうかもしれない」恐怖と潜在的な期待。映像に関わる者であれば悲劇的な大惨事を見たい、収めたいというアンビヴァレントで不謹慎な自分自身の欲望に直面するはずだ。
劇中のヴィック・エドワーズとは、ほとんどバート・レイノルズ自身のことのような錯覚に陥る。出演作の中で過去の若い自分と対峙する場面が幾度となく描かれる。過去の自分から逆襲を受けたり、戒めたり。若き日の自分は完全に過ぎ去った過去ではなく、いまも生き続けている。決まり切った因果論ではなく、現在の自分も少し先の未来の自分からの影響があるのだ。輝く夜空の星々は現存しなくとも我々に光は届く。しかし我々が見上げ対峙しなければ存在しないのだ。
アメリカ版ドクトル・チエコ(古っ! ナース井出に訂正。それですら……)ルース博士のド根性一代記。奇跡的にホロコーストを免れイスラエルでは銃を握った90歳はめちゃくちゃ元気でバート・レイノルズと較べると本当に女は強しを感じる。彼女の偉大さはとてもよく理解できる。だがひたすら涙を煽るくさいピアノソロBGMは民放地上波の報道番組みたいで萎え要素。「ラスト・ムービースター」とよく似たホロリ場面もメディアで彼女を実際見た経験がないせいか落涙には至らず。
開巻早々、黄飛鴻のテーマ(将軍令)やジョン・ウーの「狼」挿入歌(サリー・イップ歌唱)が高鳴りオオーッと盛り上がるものの当然この監督だと通俗娯楽なわけなく、殺伐さとポストモダン度が驚異的な中国内陸部の景色のもと、出所した極妻が奏でるスローな「女ののど自慢」につきあうことに。中国の田舎やくざの日常、愛人妊娠サギ、UFOオジサンの苦いアフェア(涙)など魅力的挿話もちりばめ、もう帰れない歴史の彼方の高度成長期中国に捧ぐ庶民たちのアダージョ。
垂直で手掛かりのないフラットな岩盤をTシャツ短パン、素手でひょいひょい登攀する驚愕の身体能力には畏敬の念。その上でフリーソロ本番の絵柄は案外淡泊で物足りなくも。クライマーのメンタルを気遣い撮影班を減らしたせいで素材が少なかったのか。主人公のイケメン、禁欲的、ただ一人の恋人を愛す純粋なキャラにもどこか嫉ましき優等生っぽさ。「幸福な世界にいても何も達成できない」と豪語するくせに家買って彼女とラブラブしてて、心汚れたオッサンは「チッ」と舌打ち。
泣けた。低予算、出オチ、お涙頂戴。本作をくさすフレーズはいくらも思いつく。だがそれゆえに得られるかけがえのない感動もある。老醜を誇張し俳優人生の最終回を演じたB・レイノルズは喜劇として楽しんでいるように見え、その晩年の姿はファンにも幸福を分け与える。70年代以降映画館やビデオテープで男性活劇を大量に見た世代は作中のどこかに自分の存在を感じ、映画愛が報われる瞬間に涙するはず。心優しき予定調和の極み。鑑賞後、バーで献杯を。
セックス・セラピストという好奇心を刺激する職業に関する話が意外に少なく、ホロコーストの被害者としてスイスに疎開していた少女期に話が割かれている。センセーショナルな仕事によるイメージの狭間には、ある個人の熾烈な経験という重要な根幹が横たわっている。世界の有名大学を渡り歩き、三度の結婚をした小柄な女丈夫の激動の人生はさすがに圧巻。ただ米国内では周知の事柄かもしれないが、彼女の名を知らしめた仕事に至る経緯や研究についてもっと知りたい気も。
長回しの技術的な緊張感と、男女の間の張り詰めた空気が一体化する時間。スクリーンから溢れてくるディスコシーンの瑞々しさに打ちのめされてしまった。与太話と、したたかな女のユーモラスで時にしんみりする能動性と、歌謡映画としての楽しさ。ちょいと極妻のようなテイストも、映画のアーティスティックな傾向をうまく中和する効果を果たしている。義理と愛によるメロドラマの合間で、カタギじゃない男たちが部屋で揉めているうねりも、静的ながらダイナミックで目を奪われる。
フリーソロ・クライミングを行うアレックス・オノルドの奇人ぶり。それなりの収入を得ながらトレーラーハウス暮らし等々、色々な突飛さに虚を突かれる思いがする。そしてクライミングを写す撮影隊。被写体となるアレックスの集中力を奪う不安と、それでも彼の偉業を捉えたい執着のせめぎ合いが、本作のもうひとつの主役だろう。そのミーティングの様子なども織り込まれているのは正しい構成だと思う。カメラという媒介の存在と被写体への作用の問題が鑑賞中ものしかかる。
ヴィック・エドワーズという架空の俳優に託されたバート・レイノルズの肖像。得体のしれない映画祭は実際に存在するので、老いて孤独な俳優が招かれていそいそと出かけてしまう生々しさにひやりとする。レイノルズの出演作の選択ミスなど実像に近い辺りより、虚構のストーリーに面白みがあり、過去を辿る寄り道の物語が静かにドラマチック。ハレとしての祭りを通じて再生し、ささやかな幸福を迎える展開は決して目新しくはないものの、優しさには心をほだされる。