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以前はキロ500円で売れたシジミの価格が、300円になったとシジミ獲りの男。多摩川の河口の干潟にうずくまるようにして素手でのシジミ獲り。しかも収穫量も減っている。川岸の繁みのバラック小屋で十数匹の猫と暮らす。老いたこの男の日々の営みが、変わりつつある周辺の風景と共に丁寧に映し出され、しかもどこか穏やか。男が語るここに至るまでの人生が、日本の戦後史、現代史と直結しているのも驚きで、更に男は未来をも静かに予測する。慎ましくも奥行のある秀作ドキュ。
高良健吾の抑えた緊張感と、ひっそりした息使い――。“F18+”という枠付きの映画だが、安里監督、熱帯魚などの小道具で変化をつけながら、主人公のストーカー行為を観察するように描き出す。けれども、ずっと影が薄い存在だったという孤独な主人公の心理的密室感はともかく、ストーカーされる彼女とその夫の話がいかにもなのがザンネン。どこの家にも窓の奥には秘密があると言えばそれまでだが、いっそ逆に、幸せなカップルにした方が主人公のストーカー行為が宙に浮き、面白いのに。
別に“喰種(グール)”族でなくても、一般社会は喰うか喰われるかだ、などと利いたような口を利くつもりはないが、“グール”絡みで“グルメ”と呼ばれる美食家喰種が登場したのにはカンシンした。人間界もグルメ気取りの手が掛かる人種がいる。今回の見せ場は半喰種の金木と美食家喰種の激突で、これはかなり迫力がある。友情や純愛も盛り込まれ、出演者たちが若いだけに特殊な青春映画としてもワルくない。が、観ている時は引っ張られるが、消化がいいのか、観終わると何も残らず……。
ウへッ、まいった、逃げ出したくなった。モデルだった亡き妻の活躍ぶりを、映像資料等でこれでもかと“ひけらかし”、加えて写真家や映画人など40人ほどに、夫である監督がインタビューしての“雅子賛歌”。そういえば以前、年輩の方から、亡き妻の想い出を綴ったという自費出版本が届いたことがあるが、このドキュもまんまそれで、女房自慢のプライベート・ビデオとしか言いようがない。終盤の妻を偲んで監督本人がパリを歩く映像の臆面の無さ。反面、“夫婦関係”には一切触れず。
本作が捉えたシジミ漁ネコ飼い老人の腕の逞しさは、過去本欄で扱った映画群のヒーローたちに勝るものだった。彼らがやはりどこかしら格好つけた表面だけの見世物なのに比してぶっちぎりの渋いジジイを観た。ジムで鍛えたドウェイン・ジョンソンの筋肉よりも、ネコの餌と缶チューハイのために日がな泥をまさぐる河川敷掘っ立て小屋老人の日焼けした上腕二等筋と前腕のほうが強く美しい。無名の個人の生活として小さいものでありながら世界そのものでもあるような大きな映画。必見。
画面の遊びとして「恐怖分子」か!「愛情萬歳」か!というところがあって警戒したがそれは枝葉。あくまで全体のモードが本気。俺はやるぜと気合いいれた高良健吾の戦闘モードが成人用オムツ装着、の滑稽さが流れを止める滑稽にならぬあたりの凄み。高良、安部賢一も熱いがなにより西川可奈子の体当たりによって成立している。彼女は壇蜜、佐々木心音のような角川エロスヒロインの星座に列した。変態的で物悲しく狂っていて切実な物語を映像で語られた。映画を観たという充実あり。
結構人気漫画を追って読むがいまいちノレない漫画のひとつが『東京喰種』。この作品の世界観が設定に逆接した、主人公の食いたくない思いから始まることにノレてない、体質的に合わないのかも。私は食に関して綾のない退屈な健啖家。申し訳ない。想像だが本作とその世界(メディアミックス諸作)を好む人たちは偏食過食拒食の感覚がわかる人なのか。しかし美食=悪者の月山(松田翔太)というキャラはわかった。ところで本作はアクションが良くない。吊り過ぎ。窪田正孝無駄遣い。
その映像をつくることによる喪、という意味で本作によく似ているのは平野勝之・林由美香の「監督失格」だろう。さらけだしてナンボの「監督失格」と、装うこと美しいことが人生の眼目であったひとの伝記を並べるのも妙だがつくり手の悼む想いのテンションは近い。それにうたれる。外国語題名はMasako, mon ange。ファッションに興味薄い私も彼女の姿を同時代的に無数の点景として見、「リング」における呪いのビデオの女性として認識していた。そのangeっぽさ、天使的偏在を感じた。合掌。
猛威をふるう自然。人間の営みなど気にもしないように、雨が降り、風が吹き、河川は氾濫する。だが同時に、人間の営みも自然に対して影響を与えている。だからだろうか、自然環境と人的開発との対比が望遠によってひとつのフレームに収まる映像は、儚くも美しいのだ。そして、世の中における“目に見える部分と見えない部分”、あるいは“覆い隠された部分と露わになる部分”とを干潟は暗喩しているようにも見える。村上浩康監督の『蟹の惑星』と合わせると更に多角的な視点を得る。
ベッドの下に男が隠れている、それはなぜなのか? という倒置法のような構成が映画に強いインパクトを与えている。そして重要なのは、人物の描き方に対するバランス。ともすれば、異常な行動をとる人間は“単なる異常な人間”にしか見えなくなる。登場人物の間に暴力の均衡や性的衝動の均衡を感じさせるのは、“行動”が絶妙に分散されているからだ。また本作には“スターの力”も感じさせる。別の役者が演じれば全く異なる印象になっているはずで、そこに高良健吾が演じる意味がある。
本作には〈怪奇食材制作〉なるクレジットを発見できる。人間の目にはグロテスクであっても、喰種たちには美味であろうことを“食材”に感じさせなければならないため、視覚的なデザインと聴覚を刺激する〈音響効果〉によって、重要なアイテムに説得力を与えているのだ。そして、前作では喰種と人間の闘いを描くことで“相互理解”のあり方を暗喩させていたが、続篇では喰種同士の内部分裂を更に際立たせることで、支配階級が生まれる“社会構造”のメカニズムを解体してみせている。
製作のスタートが、あくまでも妻の死後であることが本作の重要なポイント。闘病の妻に何もできなかったという監督自身の“自責の念”が、映画製作の原動力にもなっているからだ。夫が亡き妻の足跡を追いかける、という非常にプライベートな内容ながら、残された者として雅子の人生を引き受けようという姿勢。「ドキュメンタリーは取材対象者の人生まで引き受けることはできない」ことを前提としながら、引き受けられなかった部分を「何とか引き受けてみる」と抗ってみせているのだ。