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大人になってみると子どもって他者だ。何を考えているか全くわからない。それが女の子なら尚更だ。シングルマザーの姉が事件に巻きこまれ、24歳の青年が7歳の姪の父親代わりになるまで。あざとい。アマンダが無口になるほど、大人は彼女の心がどれだけ傷ついているか想像をめぐらせてしまう。娘の父親になることは、誰かと結婚すること以上に荷が重い。だって、子どもへの愛情は無償の行為が求められるから。あざとい。誰だってダヴィッド青年の心の揺れに共振せざるを得ない。
男性器をつけた美しき主演女優という意味では、「クライング・ゲーム」以来の衝撃。そういえば当時はモザイクやぼかしが入っていたが、いつから芸術映画における性器の描写は解禁になったのか。撮影時16歳だったバレエ学校の学生が、トランスジェンダーのヒロイン役を見事に演じる。その男性化も女性化もしきれていない過渡期の身体が、ホルモン剤を投与中という役柄に説得力をもたせる。未熟な身体の美しさを鑑賞するという残酷さが、実はバレエの中核にもあるのかもしれない。
14歳のジョーを演じる俳優の雰囲気が、どこかポール・ダノに似ている。監督ダノは視点人物の少年に自分を仮託することで、原作小説を映像化できると直感したのだろう。物をつくる時ってそういうものだ。壊れゆく夫婦をキャリー・マリガンとJ・ギレンホールが演じ、撮影はレイガダスやアピチャッポン作品で知られるディエゴ・ガルシア。完璧な布陣。でも映画って最後は演出家のものだ。父の不在によって母がなぜ奇異な行動にでるのか、そこが腑に落ちる演出ならベターだったかも。
現代文学の短篇を読んだあとのようなふしぎな余韻が残る作品。ベルリン、パリ、NYを舞台に、恋人を失った青年と恋人の面影をもつ妹とのあいだの、互いに惹かれながらも恋愛未満にとどまる関係をナイーブに描く。ふたりが一線を越えられないのは、亡くなった人についての記憶が、彼らの感情や行動を規定しているから。夏の光に満たされた都会の開放感のなかで、死者の存在が目には見えない潜勢力として登場人物を駆動する、そんな映像演出に今までにないフィーリングをおぼえた。
テロ事件で母親を亡くし、突然一人ぼっちになった小学生の少女。不憫なシチュエイションは泣ける映画という惹句がぴったりだが、そんななウェットなドラマではない。テロ事件に社会的、もしくは政治的な意味を持たせず、母親を奪われた一人の少女の、個人の悲劇とする視点があるからだろう。あくまで個人としての二人、少女と叔父の繊細な感情の交感は、だから美しくリアル。そのトーン、つまり二人の悲しみや寂しさや怒りを、寄り添っているように、共有させる叙情性が独創的。
よくぞこの俳優(V・ポルスター)を見つけた!? バレリーナの体つきになりたい一心で、二次性徴を抑えるための療法を受けながらレッスンに励む15歳の少年の、痛々しいまでの努力に衝撃を受けつつ、身体の変化に敏感な年頃に特有の表情や仕草の演技に息をのむ。外に理解を求めるのではなく、あくまで自分の内面の葛藤を描いた点が決め手。父親のトランスジェンダーへの理解に救われる。加えて、例えばバイオリンの鋭い音色や照明の色味で主人公の心情を表現した監督に才気を見る。
いつ崩壊しても不思議はない家族を描いて、展開に抑揚があるわけではないのに、見ごたえがある。誰も悪くはないが、ただ両親には「何をやってるのよ、大人は」と小言の一つも言いたくなるのがミソ。今さら変われない大人に対して、14歳の少年の変化と成長は逞しく、安心する。穿った見方を承知の上で、アメリカは積み上げてきた秩序を壊す大統領が意気軒昂だが、モンタナの60年代の風景と家族と暮らしに、本来のアメリカ力を垣間見る思い。地味な話だが手堅い演出で深いドラマに。
「アマンダと僕」の監督の前作だが、両作品にはいくつかの共通点がある。最大のそれは、愛する人を突然亡くした人が主人公であり、起きてしまったことを受容せざるを得ない状況。この映画の構成はベルリン、パリ、ニューヨークの三都物語で、生命力が最も輝く季節の夏に、三つのドラマをつづるセンスが好ましい。同じ夏でも三都市の微妙に違う光景や空気感と、察するに余りある主人公の喪失感を絶妙に絡める作風は、優れてユニーク。悲しみを重すぎずに描いて人を再生させる。
「サマーフィーリング」からの流れで観るのがベスト。ミカエル・アース監督の作家性やテーマがきれいにつながって作品の垣根を越えた連動が見られる。突然父親の役割を引き受けることになった若手のヴァンサン・ラコストはいわゆるフランス映画ならではの佇まいで、かつてのマチュー・アマルリックやロマン・デュリスみたいな系譜を思わせる。娘のアマンダ役のイゾールが、いわゆる誰もが愛でるような愛くるしいルックスやキャラクターでないのもいい。この路線でもう一本ぐらい観たい。
自らの肉体が最大の武器であるバレエのパフォーマンスでは、練習でも舞台でも常に体の形を露わにすることが必然であり、自身のそれと日々向き合わなければならない。トランスジェンダーにとって最も過酷な環境の一つであると言える。だが本作におけるその描写は決してマイノリティ特有の体験に終始せず、肉体の変化に直面する思春期の少年少女たちが経験するであろう戸惑いや不安、葛藤、痛みを繊細に掬い上げる。性別を超越したヴィクトール・ポルスターの存在感に驚くばかり。
作家性の強い作品への出演で知られる俳優のポール・ダノが、エリア・カザンの孫娘であり自身のパートナーでもあるゾーイ・カザンとの共同脚本で監督デビュー。ギレンホールとマリガンの起用を含め、題材の選び方、映画との向き合い方など、どこを取っても申し分のない座組みでまさに死角なしと言ったところ。あまりにツッコミどころがなさすぎてある種の物足りなさや退屈さまで装備しているほどだ。ラストで家族のポートレート撮影を試みる少年が、自ら家族を再構築するシーンが象徴的。
同じ痛みを共有する者たちの関係は実に切ない。お互いが次のページへ進むために、ある時期には絶対に必要なものではあるが、結局はそれぞれ一人で乗り越えなければならない。一度踏み出したらむしろ二度と戻るべきではない間柄であるがゆえに、そこに恋愛めいたものが絡んでくると、事態はさらに厄介だ。パートナーを失った青年を演じるアンデルシュ・ダニエルセン・リーが、ロメール的な男のナイーブさやズルさを絶妙ににじませていて、ハッピーエンドなのにほろ苦い後味が効く。