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冒頭の血と死体の大盤振舞にアソビを加えた演出が効果的で、以降のヤバイ場面も屈託なく楽しめる。そして岡田准一のおとぼけ演技。いつも楷書で書いたような演技が多いのに、今回はひらがな、カタカナふうの演技で殺しを禁じられた殺し屋を演じ、しかも超ネコ舌という設定、シリーズ化してほしいほど。終盤の数十人のスタントマンが参加しての工場内アクションも、人もカメラもよく動き、感心する。柳楽優弥の「ディストラクション・ベイビーズ」ふうキャラと演技も小気味いい。
中井貴一のハイテンションなナレーションに誘われ、つい見てしまうNHKの“サラメシ”。ランチや弁当の中身もさることながら、日常の中で取材される人々の多種多様な仕事も私には面白い。実話がベースというこの作品の母親は、いくつもの仕事を掛け持ちしながら、反抗期の娘の弁当作りに工夫を凝らす。反抗期といっても大したトラブルがあるワケでもなく、シングル・マザーの母親も楽天的、あとは凝った弁当と些細なエピソードがあるだけ。サラっと観られる消化のいい映画。
もう若くない主人公の居場所探し!? 言っちゃあなんだが、これほどヨソヨソしい白石作品は初めて。加藤正人のオリジナル脚本は、あえて東日本大震災の爪痕の残る石巻を舞台に設定し、主人公は恋人の故郷であるこの見知らぬ土地で、悲劇に巻き込まれるというのだが、演じる香取慎吾の神妙、かつかしこまった演技が取っつきワルく、しかも周囲に引っ張られてばかり。足場を持たずに生きてきた男の、人生の正念場ドラマにしてもヨソヨソしく、そもそもこの作品の狙いからして曖昧。
「溺れるナイフ」の舞台となった自然がいっぱいの風土は、若い主人公たちの無自覚な欲望といらだちを、痛みと共に解放していたが、今回は海はあっても無機質なコンクリートの世界、その上、閉鎖的で限りなくミニマムな空間での初恋の絡み合い、観ているだけでかなり息苦しい。何度も出てくる高層マンションの外階段でのおしゃべりは、宙ぶらりんの主人公たちの宙ぶらりんの関係の場としてイミがあるのだろうが、結論を出さないと前に進めないという現代っ子の短急さを見せられてもね。
南勝久『ナニワトモアレ』は結構熱く読んでた。その主人公グッさんのもっぱら気合いでやりきるケンカ描写はヤンキー世界におけるリアリズムの最長不倒距離をやりきったものだと思うがそこを越えての『ザ・ファブル』、現在も堪能してます。その、暴力のプロがそれを封印して普通を生きる話、実写化するとしてこんなの演じられる人いる? に対して、まったく似てないのにそのキャラを見事に翻案再現した岡田准一がやはり良い。Tシャツ短パン姿のバルクがヤバい。壁虎功もヤバい。
子どもが独り立ちする直前まで見せる親に対する生意気は当然のことだし問題ない。大抵の親が差し引きで考えれば引き合わぬ“育てる”ということをやり遂げうるのは、子のごく幼いときの無心の笑みや微笑ましい振る舞いで既に報われているから。だがそれはいつかは更生し、感謝に転じるほうが望ましい。それは親の満足の問題でなく、その謙虚さやそこまで思いが至ることがその後その子を生き易くするから。そういう超普遍的なことを優れた実話ネタをもとに説教臭なく楽しく見せた作。
香取慎吾がいま新たに生きなおしているというどうしてもこちらに入ってくる芸能界的な情報を逆手にとって、もっと大きな再生に重ねた映画。人の営みの小ささ凡庸さが翳りとともにあらわれてそれを軽んじることを許さない。見甲斐がある。そもそも加藤正人のオリジナル脚本、人物造型が優れている。たしかにギャンブル狂というのは汚れとピュアさを併せ持つ人種だ。「熱い賭け」のジェームズ・カーン、「フェニックス」のレイ・リオッタを想う。あと吉澤健と寺十吾がもう最高っす。
他にないものを見せようという作り手の熱と野心に圧倒された。実際それを実現してることにも。執拗なインサートカットや音楽の貼り付けが的確な効果かどうかは不明だが映像表現を新たに行なおうという意志がある。ベッドでスマホテレビ電話のテレフォンペッティングをするときの正しい編集、切り返しを知ってるか。本作はそれを知ってる。そういうものをもこの映画は作り出す。反=安全牌的な姿勢の横溢。それは生の激動極まりない不可逆な一季、青春を過ごす者の物語に相応しい。
大阪には“こなもん”が多い。それは、たこ焼きやお好み焼きなど小麦粉を原料とする食べ物を指すが、水でといた生地を焼くので基本的に熱い。それゆえ「殺し屋が殺しを封印される」という弱点と「猫舌の男が“こなもん”の聖地に渡る」という弱点とが不思議な符合を生み出すのだ。また、大阪は会話のテンポが早い。同様に、岡田准一の身体能力を活かしたアクションは、ワンカットではなく細かいカットを割ることでテンポを生み出している。つまり大阪が舞台であることは必然なのだ。
反抗期の娘は母親と「口をきかない」=「喋らない」。一方で、この映画の登場人物は総じてよく「喋る」。母親に至っては独り言のオンパレードだ。しかし、娘が少しずつ「喋る」ようになると共に無駄な台詞が徐々に削がれていることが判る。そして映画の終盤では、母親が娘の卒業のために作った“最後のお弁当”の映像を見せるだけで全てを語ってみせている。そこに台詞はない。キャラ弁を作る時間は、相手を想う時間でもある。その総和と台詞の総和とが、実は均衡しているのである。
ごく普通に生きること、労働すること、そんな当たり前のことさえままならない日本の現状が物語の骨格を成している。そして高校生に「俺はここから出れねぇだけだ」という諦念を語らせることで地方の現実を悟らせてもいる。この映画に登場する男たちは「あの時、ああしていれば」という後悔を抱えた者ばかり。〈美しい波〉という名を持つ少女は、そんな男たちの心に“凪”を導く存在だ。これまで誰も見たことの無いような香取慎吾にも“凪”の訪れを感じさせる終幕は、厳しくも美しい。
無機質な印象を与える建築物を、彼女/彼たちの住まいとすることで心象風景を生み出している。彼らは自身の内面が“からっぽ”であることに、ある種のコンプレックスを抱いているが、視覚的にもそのように見えるのはロケーションの審美眼に依るものだ。山戸結希監督は過去作品と同様に、観客が登場人物に対して抱く想いを拒絶するかのようにシーンとシーンの繋がりを没却し、登場人物の感情そのものを分断させている。身体は純潔だが心は乱れたヒロイン不安定さの源泉はそこにある。