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年上のピアニストとの恋に落ちるズーラが魅力的だ。自分の未熟さを知っている、聡明なヒロインである。時代や環境が変わっても、二人の恋の炎は決して消えることがなく、ゆえに切ない。監督が三番目の登場人物と語る音楽も素晴らしい。民族音楽からジャズへとアレンジを変えて、劇中で繰り返し歌い継がれる『心』はもちろん、エンドロールで流れる『ゴルトベルク変奏曲』も、耳をすませて聴いてほしい。教会の丸窓に切り取られた空から、荒れ地へと転調するカメラワークもドラマチック。
蓮實重彥氏は文庫本の解説で、原作の魅力を「直線性」という言葉で評した。殺人衝動を持つ男と自殺願望を持つ女が出会うスタイリッシュな物語独特の緊迫感、直線的な展開には、ニコラス・ペッシェ監督の原作への理解(タイトルバックとエンドロールの直線的で、美しい建物の映像!)を、男がホテルの廊下で出会う外国人の老夫婦から妻を探す男性老人への変更には時代の変化を感じた。映画のユーモアは原作より不条理気味。好みが別れるところだが、最後の台詞は原作の方がシャープだ。
ヒロイン・ペトラに、父親が誰かを明かさぬまま死んだ母は、昔からずっと娘の顔が好きだったと笑顔を見せた。血でも性格でもなく、顔が好きだという親<人としての愛すなわち真実。最終章で、鏡の中の自分の顔をまじまじと見つめていたペトラにも、漸くその愛は伝わったのだろう(この時遂に、表題の境地に至る)。偽りの連鎖で繋がった悲劇は、希望の結末を迎える。ここまで徹底的な悪キャラ=ジャウマは久しぶりで痛快。ジャウマ役のJ・ボテイ、77歳の俳優デビュー作とは驚きだ。
フランシーヌがオルタンスの家を初めて訪れた時、楽器の女王フルートの際立つ、美しい音楽が、シーンにそよ風を起こす。孤独なフランシーヌの人生は、歌と共にある。周囲の人々の不安を和らげたその歌声はやがて、いとしい息子に向けた子守歌ではなく、「愛なんてはかない」と、彼方を見つめて歌うようになる。息子を育てるためと想像しても、その姿は哀しい。オルタンスが田園で長男の訃報を受け取った時の、カメラワークと音楽も、母親の深い哀しみを切り取る。こちらは嵐のような。
第二次大戦終戦から戦後混乱期にかけての男女のクッツイタリ離レタリは、まるで吉田喜重「秋津温泉」東欧版のごとし。共産化したポーランドからパリに亡命した男が芸能界で俗物化する展開も「秋津温泉」に似るが、吉田が東京シーンをあえて精彩を欠く描写としたのに対し、今作は硬めに引き締まったモノクロームが効いて、ヌーヴェルヴァーグ胎動期のパリを生々しく起き上がらせる。単にメロドラマ的情熱に終始せず、流転の副産物をも見据えようとする透徹ぶりに舌を巻いた。
ミア・ワシコウスカが少女役として出てきた当初、スラヴ的なエキゾチシズムで危険な魅力を放っていた。本作もそのイメージの延長線上で得体の知れないSM嬢を演じさせている。しかしその配置はもはや「ワルの予定調和」だ。村上龍的な都市の夢魔性、退廃、浮遊感。バートン、ヴァン・サント、ジャームッシュ、クローネンバーグといった作家たちを魅了した少女の威力は今、まるで日本のインディーズ映画のような箱庭宇宙の中を揺蕩っている。そういう時期も必要なのかもしれないが。
信用のおける登場人物をどうやら一人も見出せぬ本作で、観客は何を信じたらよいのか。最も興味深い人物は諸悪の根源たるジャウマなる売れっ子美術作家だが、彼とて周囲からの俗物扱いを覆す奥の手を持ち合わせているわけではない。イジワル根性が肥大化した領地で、アートが単なるスノビズムとして断罪されることによって、私たち観客は侮辱を受ける――私たち自身の美への愛が、依存が。時系列を狂わせた脚本の工夫も、思わせぶりなカメラワークもその屈辱感を晴らしはしない。
第一次世界大戦を農村の女性視点から観測する試みは、19世紀/20世紀の消長を現代的な距離で見据えるためだ。ナタリー・バイ演じる農園の毅然とした女主人が最後にしくじった際の呆然自失ぶりは素晴らしい。そして新人イリス・ブリーの存在は、「嵐の孤児」(21)のリリアン&ドロシー・ギッシュ姉妹の同時代人そのものだ。実はギッシュ姉妹に隠し三女がいて、フランスの田舎でしぶとく生き延び、百年後に解凍され、活き活きと動き回っているかのような錯覚を覚える。
題名がずばり“冷戦”。ポーランドの「灰とダイヤモンド」「夜行列車」のあの頃を思い出し、スタンダード白黒の画面が懐かしさに拍車をかける。ソ連体制下の国から亡命した男と留まった女のすれ違い恋愛劇。2つの心はどちらにいても安逸を得ない。そのひりひりを、もうもう貴方しかいないところまで追い詰めていくこの脚本。切ない。だけどその切実さがワイダ、カワレロウィッチまで迫ってこないところに、時代の隔たりを感じて。この監督、少しスタイリッシュに過ぎるのではないか。
原作に描かれた男の過去はちらり匂わすだけ。女の過去に至っては微塵もない。それゆえか映画は猟奇スリラーの色が濃くなって。殺人嗜好の男が大マジメにアイスピックを振りかざしてトレーニングをする。そこにオカシさが滲む。だけど狙った女が彼以上のサイコだったというところ。なんだかヒッチコックの巻き込まれ型サスペンスを思い起こさせ、翻弄されるのが殺人鬼だったというところに皮肉な面白さがある。となれば、脚本・演出にもっと工夫と洒落っ気があればと歯ぎしりもして。
第2章からはじまって、3章、1章と映画は時制を交錯させて展開。どこかパズルを解いていくような。演出はしっかりしていて見ごたえがある。スペインの田園地帯、その乾いた空気。ミステリー的雰囲気も良くて。だけどこの物語、まともに語れば、よくある話とも思える。結末まで分かって、もう一章、前に返したとき、これまで見てきた人物像なり事象がまったく違って見えた。そこに人間の謎が隠されていた。そんな“決め”技がほしかった。なんか話法だけで安心している映画の気が。
第一次大戦を背景にして反戦を謳わない。戦場よりも銃後。戦闘よりも労働。女たちの農作業画面が淡々と。そのミレー的映像に見惚れる。この家族を揺るがしたのがアメリカ兵と米国産トラクター。それよりも奉公女という流れ者が、この一家を支え、息づかせる。たとえシングルマザーになろうとも、きりりと生き抜くこのヒロイン像に、監督の限りない女性憧憬がうかがえて。幕切れ、芝居どころを排して、さらり歌で通したこと。それとルグランの音楽が絶妙のタイミングで入ること。感嘆。