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四年前に書籍『国境を超える現代ヨーロッパ映画250』を共編で刊行した。ヨーロッパ映画のなかの移民、難民、マイノリティに光を当てるのが目的だった。本作のインド人青年もパリで恋に落ち、スペインの空港で不法移民として拘留され、リビアの難民施設に放りこまれる。ひと味違うのは、ついにヨーロッパ映画がボリウッドを模倣して、歌あり踊りありのミュージカル場面が入ったり、底抜けに明るいところだ。停滞するヨーロッパ映画には、文化的多様性に進む道しか残されていまい。
現政権が長々と続くなか、国内の年金や生活保護の給付額は減らされ、貧困率は上昇している。それに比べても、国民健康保険のないアメリカのプア・ホワイトの貧困生活と育児放棄は、ちょっとスケールの違いを感じる。アルコール中毒の父と自称画家の母、四人の子どもたちが借金と夜逃げをくり返す。最後にはNYでホームレスまでする父母には、時代的に何か思想的背景があったのか。ハワイ出身の沖縄系三世というデスティン・ダニエル・クレットン監督の、今後の作品にも期待したい。
子供の頃、祖父母の家に親戚一同が集合する新年会が好きだった。世代の異なる人が集まり、酒で酔いがまわると隠されていた欲望や不満があらわになり、大人たちが醜聞をくり広げるから。本作では、イタリアの離島に祖父母の金婚式のために大家族が集まる。認知症、倦怠期の夫婦、腹違いの子、不倫、初恋、仕事の妬みなど、家族や親戚内で起こるあらゆる問題や確執が噴きだす。監督はそれを滑らかに移動撮影し、群像劇として、複雑で解きほぐせなくなった人生や関係性を見せてくれる。
映画の製作者たちは、なぜ名作のリメイクを思いつくのか。前作から時間を経て、別の視点でつくれると思うのか。デジタル時代の撮影や編集で、よりリアルに戦前の仏領ギニアを描けると思ったのか。ならば、フランス語映画にしても良かったが。本作の成功の理由は、監督が前作のことを考えず、原作小説から映画を再創造したからだろう。さらに植民地での強制労働や脱獄が、独房や悪魔の島が、すべて実話だという事前の了解があるおかげで、観る者の実存に迫ってくるものがあるのだ。
ありえないエピソードを力技で物語にしてしまうのが監督ケン・スコットの特徴だとすれば、この映画はまことに監督らしい。大手家具店のクローゼットに入り込んだ主人公が、その家具と一緒に各国を旅するのだから。途中の出来事や出会いなど、ハプニングやアクシデントで繋いだストーリーは、まるで幸せになるための人生双六のようだ。中でもトレビの泉(伊)は名作のシーンを思い出したりして楽しいし、駒を進めて「あがり」で主人公は幸せを見つけるが、終始ドタバタが過ぎて虚しい。
W・ハレルソンが出演していると知れば、条件反射的に不穏なドラマを想像する。と同時に、達者な演技に感心すること多々。今回の毒親ぶりは、嘘で親を美化する利発な子供のキャラとの相乗効果によって、同情はできないが、善悪を超えて哀れを誘う。子供は親を選べない。自伝が原作のこの映画を、苦境を克服して成長した娘の美談、あるいはケシカラン親に振り回された子供の悲劇と見るかはともかく、子供をめぐるむごい事件の報道に接することが多い現実に思いが至り、ヒリヒリ痛い。
一見、問題がなさそうな家族もひと皮めくれば。こんな当たり前の、それも浮気や介護や借金と、一般人には身近なことばかりを、会話の応酬で展開するこのドラマは、島全体を舞台装置に使った一幕ものの舞台劇のようだ。不満や怒りを爆発させる感情のぶつけ合いは、まるで爆竹の連続破裂音。G・ムッチーノは登場人物に主役・脇役の序列をつけず全員をフラットに描き、かつ相関関係をはっきり解らせる。その技量が素晴らしい。加えて、味わい深い俳優の演技が話を面白くした。
まずは監督、主演の二人の勇気を讃えたい。リメイクはオリジナルと比較されるうえ、オリジナルを超えた、もしくは匹敵するケースは稀。だがこれは稀なケース。第一の要因はオリジナルにはなかったパリの話を加えることで、冒頭でパピヨンへの理不尽な濡れ衣を強調。それによってリメイクは新たな視点を持ち、結果、脱獄そのものが焦点だったオリジナルとは違い、第二の要因としてパピヨンとドガの人間性を軸にした新たな脱獄映画に。隙のない演出と俳優の実力があってこそだ。
ファンタジーとリアリティのさじ加減がやや中途半端。貧困や難民問題など深刻なトピックをちりばめつつ、それらは常に笑いと表裏一体で描かれるが、主人公の冒険のスパイスにしては重くしたいのか軽くしたいのか方向性が行方不明。芝居の演出にもそれは通じており、瞬間的な面白さはあっても、全体を貫くものがないのでコメディとして気持ちよく笑えない。よって役者陣も与えられた役割を器用にこなしている印象を拭えない。嘘をつくなら徹底的に、その覚悟がないなら潔く丸腰で。
ウディ・ハレルソン&ナオミ・ワッツの両親がさすがの域。親としても人間としても問題だらけで、「憎めない」範疇はとうに超えているが、どこかチャーミングなものを感じてしまう。それは彼ら(特にハレルソン)が常に本気だからだ。経済的にも精神的にも子供が親に依存せざるを得ない幼少時の体験がそのベースとなっていることを考えると、チャーミングさを感じてしまうことが、ストックホルム症候群的な現象であるかもしれないうしろめたさも含めて。親子という関係の妙と罪深さ。
あるシチュエイションで集まった家族の暴露劇はもはや一つのジャンルだ。悲劇でも喜劇でも、あるいはその両方でも。そこで差別化を決定づけるのはイタリアというお国柄にほかならない。ただでさえ言葉数が多くダイナミックで攻撃的にも聞こえるイタリア語のセリフの応酬はそれだけでパワフル。家族という奇妙な関係が孕む修羅場の普遍性と、その発露の仕方に表われる決定的な違いが面白い。イスキア島の美しくもワイルドなロケーションと同様、その場にいるより見るほうが眼福かも。
敢えて極上のエンタテインメントと言いたい。観ているこちらが諦めたくなるような途方もない挑戦を繰り返す男たちの闘いに、アクションと心理スリラーの両面から迫る、手に汗握る脱獄劇。しかもこのリメイク版を支えるのは、美談でも英雄譚でもなく、ただただここから抜け出したいという狂気じみた飽くなき本能的欲求。これがエンタメでなくて何だろうか。チャーリー・ハナムとラミ・マレックの、『BANANA FISH』のアッシュと英二みたいなBL感を匂わせる関係もたまらない。