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せめて浅田美代子をもう少しキレイに撮ってほしかった。そして浅田本人ももう少し38歳を意識した〝張り〟のある演技をしてほしかった。2年前に実際に起きた詐欺事件がベースの〝何が彼女をそうさせたか〟。が、被害者ふう加害者という中途半端な主人公像が、浅田美代子の及び腰の演技で更に曖昧となり、ただ人騒がせな女を表面的になぞっているだけ。主人公の家庭環境や高校時代のエピソードも取ってつけたように薄っぺら。樹木希林さんの、贔屓の引き倒しのような企画作品だ。
星4つの内2つは、手のかかる主役カップルの成り行きにいちいち半畳を入れるスケバン系キャラの前田敦子の怪演(!?)に対して。ひねくれ者の応援団で、出番は多くないが、ジレッたがっての一言が話の軽い節目となり、実におかしい。善意の天使の町田くんと、人嫌いの女生徒との綱引きドラマはさして珍しくないが、緑と水辺のロケ地が新人コンビのまっすぐな演技をビジュアル的に支え、映画の余裕にもなっている。町田くんの影響で生き方をリセットする池松壮亮がウソっぽい。
確かにゲームやアニメを盛り込んだポップなビジュアル演出は、テレビCMやプロモーション・ビデオを連想させなくはない。けれども冒頭にカミュ『異邦人』のあの有名な書き出しをそっくり引用し、終盤では同じく不条理作家カフカの『城』にまで言及するペダンチックぶりは、それを口にするのが親が死んでも泣けない子どもたちだけに、逆に説得力があり、脚本も書いている長久監督の周到な計算は、実にスリリング。“あらかじめ失われた子どもたち”の「変身」的旅立ちに拍手!!
ダベリング映画の佳作「セトウツミ」の、柴犬連れのおじさん版という趣向で、ドラマ版は未見だが、人畜無害度100%!! 主役の渋川清彦がコケ(苔)の研究者で、背広にネクタイ姿で大学に通うシーンなどもチラッとあるが、メインはそれぞれの柴犬を連れた渋川ら三人の男たちが公園のベンチに座っての井戸端会議で、世はコトもなし、の他愛なさ。後半は、渋川の柴犬絡みの恋物語が用意されているが、ドロンズ石本と大西信満の節度ある野次馬演技も憎めない。そして愛すべき犬たち。
本作自体がまるで一個の女系犯罪であることがすごい。聞けば本作中でも一徹な演技者の遺言としてその姿を刻む樹木希林が根本のアイディアを出したという。それは内田裕也が主演や企画者としていくつかの男でしかないものがやらかす犯罪の映画を遺したことへの絶妙な一発の後出しジャンケンだ。樹木希林の期待に充分応えて熱演した主演浅田美代子とともに裕也的ワールドに、あたしらはこんなふう、と返した。それは自称38歳の女詐欺師60歳のファックのようにド迫力で美しい。
まだ映画に寓話を演じる大胆さがあったかとそのピュアネスに唸る。いやそれはむしろ純粋さというよりムイシュキン公爵のような人物像にどんどん周囲のキャラの反応を乗っけた設定の、狡猾さに近い巧みさかもしれない。町田くんがお気に入りの川べりの場所でヒロインと追っかけあう遠景のカット、こういう画面としての遊びはかつてVシネ時代の黒沢清映画で無根拠な痛快さとしてしばしば目撃したが本作は根拠あるふうで上手い。それが邦画の進歩かどうかは判らぬが変化ではある。
劇中バンドが歌い奏でる曲の、ない、ない、とhave not とdenaial を重ねる歌詞と、ウィー・アーの語にちょっと電気グルーヴの曲ふたつくらいを連想するが、それがこどもっぽい声で叫ばれるところに、90年代的世紀末的ヤケクソさから打って出ることがもっとチャーミングに生きなおされている感じがあった。昨今のゾンビという概念のポップ化はぶち殺されてもいいものとしてゲームで使用され続けた結果の再発見。そこにアイデンティファイしてからの再生。それは強い。希望でしかない。
何もないとか、駄弁りだけの映画という触れ込みだがそれは韜晦というかであって、相当仕掛けてるし中身はいろいろある。それは渋い野心だ。系譜としてはドラマ・映画の「幼獣マメシバ」シリーズ直系だろうが、発想やスタイルの面では「セトウツミ」(2016年、大森立嗣)を思わせる。ただ、そういう、どれだけ引き算にしていくか、には行かない。ところで犬がこんなに芝居するものなのか、いやもちろん編集の技もあるだろうが、それにしてもこんなにうまくはまるものかと感心。
エリカに騙された人々の証言を取材する記者。彼の立場は観客の視点を代弁している。その謎解き的な構成は「市民ケーン」と同様の構成を想起させるものだ。ひとつのフレームの中に、ふたつの情報を映り込ませることで、表裏のメタファーとなるスタンダードサイズを基本とした画面構成。また、暗部でゆらめく蠟燭の炎やスローモーションを用いることで、登場人物の内面を映像に反映させている。意図された画作りは浅田美代子が演じるエリカという人物の不透明さを際立たせているのだ。
町田くんを中心とした“限られた世界”を目撃するという印象を受けるのは、撮影に望遠を多用しているからである。被写界深度の浅い映像は、被写体の周囲のフォーカスがはっきりとしなくなる。つまり「周囲が見えない」感じを与えるのだ。心の代弁者で語り部的な役割をも担う前田敦子の蛮カラなキャラクターや、人物造形に深みを持たせた高畑充希の演技アプローチが秀逸。純粋でいることがこれほど困難な時代であるという事実に絶望させられるがゆえ、前田くんの姿は希望を抱かせる。
平成の終わりに作られ、令和という“新時代”のはじまりを告げる作品だ。前作に続いて長久允監督は、ゴミ箱視点・魚視点・清掃車視点などの奇妙な主観、幾何学的で虚無な俯瞰ショットなどの個性的な視覚的表現を実践。それらは現実と非現実、有機質と無機質との境界線を構築。“神の視点”のような俯瞰ショットは〈生と死〉を想起させ、同時に「人生はゲームではない」という反定立をも導いている。奇抜な映像や厭世観に騙されてはならない。あくまでもこの映画は、人生讃歌だからだ。
劇中の「苔は自己主張せず人々の生活に密着している」という台詞は、本作の魅力を代弁している。犬は人と人とを媒介する。本作においてもコミュニケーション下手な人間同士を繋ぐコミュニケーションのツールとして、犬が重要な存在になっていることを窺わせる。ドラマの劇場版という立ち位置だが、独立した作品として鑑賞可能な点、さらに“渋川清彦の主演映画”としての価値に対しても評価されるべき点がある。「自分を認めたら楽になる」なる台詞に現代社会の疲れを癒す根源を悟る。