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スイス、ドイツ、フランス、オーストリア辺りの地理の予習を是非。ヨーロッパ大陸の上空を縦横無尽に飛び回る高性能カメラから、鳥瞰の字そのままに鳥にとりつけた(!)カメラまで、徹底的に「上から写す」ということで成り立つ映画。事前の撮影ポイント選び作業は如何なるものか? 映画の始まりはヒラリー卿の言葉、最後はマロリーの言葉が共に書かれているがそこに触れるナレーションはない不思議。ああしかし、目前に迫る氷河の消滅に手だてのない人間の無力さ傲慢さよ。
「セッション」で今年のベスト決まりと思いきや、出ましたまたもや!〝スリリング〟という言葉はこの映画のためにある。こちらも全く事前の知識なしに白紙の状態で観ると最高です。その構成、その設定、その演出、期待を超えるラスト。障がいを扱う映画でかつて誰もみたことのないその自由さと英知とセンス。参りました。以前から気になっていた日本のルポルタージュ『累犯障害者』の映画化ヒントが見えたような個人的な感動も重なり、5つでは★の数ぜーんぜん足りず困る大傑作!
あっという間に成功の階段を上る小説家志望の夫と苦節の続く女優志望の妻。「表現者ふたりがひとつ屋根に住む」珍しくない結婚物語なので、繰り返される「愛」という言葉をどう描くか、俳優と演出の腕の見せ所満載。特に科白を極小に抑えたミュージカルともなれば、歌詞が歌唱力が重要に。そこはアメリカ、人材はそれなりに。舞台にはない複数のセットも獲得し、収入の上昇もインテリアで表現され、ふたりのすれ違いが明確に描かれる。が、しかし、後味の悪い通俗感に困惑……。
「視線を盗め」というキャッチコピーに期待が高まる。コン・ゲームを堪能するのはいつも映画の歓びだから。だが、いくつかの大がかりで愉快なエピソードがありながら肩すかし感がぬぐえないのは何故だろう。自分の技に溺れ自滅する詐欺師とか、何かの復讐に団結する仲間たちとか、そんなドラマを期待していたわけではないのに……つまるところ、アメリカ人の喜ぶトピックを組み合わせたシンプルな映画だから? 故に最後は父と息子の戦いと愛で締める安心感。洗練の極みをみたかった。
ヒラリーのエレベスト初登頂を描いた「ビヨンド・ザ・エッジ」ではクライマックスにいたるまで、ズーム・レンズを控える演出だったが、この映画はヘリコプターにアメリカの諜報局が開発したカメラ「シネフレックス」を搭載して、アルプスの山々を俯瞰撮影し、目を楽しませる。おおかたのヨーロッパ旅行者は遠くからアルプスを眺めているだけで、これほど内部に立ち入ることはないのだから、歴史も含めて勉強になる。アルプスを知らなければヨーロッパを深く理解できないということだ。
主人公(エドワード・ホッグ好演)がみずから視覚障がいをもちながら、診療所で「反響定位」の技術を教える青年なので、全篇、音には敏感になる映画だ。ホッグは白杖を持たず、平然と街を歩き回り、診療所では危険人物とされるのだが、映画のテーマは教育問題にとどまらず、むしろ健常者が見失っている空の美しさ、海や果実の匂いといったものに注がれる。リスボンの街の生活空間の描写がみごとで、ホッグが美しい盲目の女と靴屋に入り、音響でハイヒールを選ぶシーンに感動した。
男女の心のうちをリアルな風景をバックに歌いあげる、魅力的な試みのミュージカルだが、ドラマ展開が気に食わない。男はユダヤ系作家として世の評価を得ることを切望し、女はなにを置いても俳優になりたい。男が先に認められ、女が役につけないのが悲劇の始まり。男が出世のためにパーティに出たいのに、女は付き合いたくない。フィッツジェラルド夫人ゼルダのように栄光と悲惨を共にする優雅さがないのだ。男の方も一度くらい、女がやっている芝居を観てやれよ、と言いたくなった。
詐欺師を主人公とする娯楽映画を二人の監督で撮るということは、詐欺の手口その他、それなりに苦労の多い課題を二人で分かち合って作品を面白くしようということだろう。だからニューオリンズ、ブエノスアイレスと場所が変わり、年代がとんでも、それぞれ見せ場を作って破綻がない。たとえばスリで稼ぐシークエンスでもあっというまに集団の力で悪事を働き、画面の上ではナットクさせて次に進む。ドストエフスキーの『罪と罰』にインスパイアされたブレッソンの「スリ」とは大違い。
観光開発や気候変動によって、峻厳な風景が幾重にも変容をせまられてきたアルプスの歴史を空撮のみで描こうというコンセプトは、わかる。松江泰治のデジタル写真を想わせる映像のハイレゾリューション、たしかに自然と文化が交渉しあうなかで生まれた風景はうつくしい。けれども、いくつものトピックのうわべをすべってゆくのみで、全面的に散漫。おそい夕飯をすませたあと、なにげなく点いていたテレビで毎夜、5分ずつ見たい感じである。そうそう、『世界の車窓から』のあの感じで。
映画とは、何かを「見せる」ことではなく、「見る」ことの芸術である。盲目の青年たちが「見ている」光景を映し出すことのたやすさを避けて、不安なその横顔をそっと見つめつづけるこの作品のカメラの慎ましさは、観客に彼らを「見せる」のではなく、彼らとともに「見る」ことをゆるぎなく選びとっている。結末にふいに僕らにおとずれる感動は、まさに彼らとともに「見る」ことの深いよろこびにほかならない。そう、目をとじて、たしかめるように。僕らはたしかに水平線を横切る船を見たんだ。
お話も終盤。男は歌う、「もうたくさんだ!」。たいへん申し上げにくいが、そう絶叫したいのは80分ほど耐えたこっちである。冒頭、アナ・ケンドリックが突然ミュージカルを開始して虚を衝かれたのだが(知らなかった)、女と男、思いおもいに歌われる数かずの歌の内実は犬も喰わないことで名高い「痴話喧嘩」である。近年のこれら時間軸逆行系映画は、時間芸術としての映画への挑発に見えて、けっきょく「時間を描けない」という致命傷を露呈しているだけに思えてならぬ。ワンワン!
米国のサギ師はいまだに「拾った女」のリチャード・ウィドマークみたいな古典的スリをやっているのか。それはよいにしても、いっさい伏線もなしに、すべてのトリックを事後報告するこの堂々たる後出しジャンケン、手口の理不尽さ、ウィル・スミスのドヤ顔、等々をどう見ればよいものか。観客のフォーカスをスター俳優に引きつけてカネをまきあげるこの映画がサギみたいなものだよ。おっと言い過ぎた。オッサンの下ネタにヒザをたたいて爆笑するマーゴット嬢はとってもかわいいぞ!