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一九四八年の米映画「山河遥かなり」のドイツ少年は、何をきかれてもイッヒ・ヴァイス・ニヒト(ぼく知らない)と答えるだけだった。同じ英語原題(the search)のこの映画の少年は一九九九年ロシア軍のチェチェン進攻で親を失い、ひと言も口を聞かない。彼らが21世紀をむかえる日の描写もあるが、戦争と大量虐殺の20世紀を経た今世紀は、早くも前の世紀の方がまだましだったのかもしれないと思わせる世界状況になりつつあることをこの映画は示す。希望はあるのか?「ぼく知らない」。
一八六〇年代朝鮮の野盗軍団の圧政への戦いを描くこの映画は、時にはかつてのマカロニ・ウエスタン調で、米西部劇「ブラボー砦の脱出」に似た場面もあるが、オレンジ茶色系のしぶく抑えた色調が、砂塵のなか夕陽に向って馬を駆る群盗たちの情景に味わいを与えている。圧政者は白装束(だけではないが)を際ださせた剣さばきあざやかなカン・ドンウォンで、この悪役は画面をさらう。彼を追うハ・ジョンウとの竹林の対決は、かつてのキン・フーの映画みたい。音楽も楽しませてくれる。
この新しいディズニー映画のシンデレラは、舞踏会に出る前に、すでにお城の王子さまに会っているという設定。ふたりとも乗馬姿でシンデレラはさっそうと馬を早駆けさせる。つまりこれは「アナと雪の女王」に続いて、女性がありのままに自分らしく生きることをテーマにした作品。子どもの頃からの私の疑問 舞踏会のために妖精が魔法で作ってくれた馬車やドレスなど一式は、十二時の鐘とともにすべてもとの形に戻ってしまうのに、ガラスの靴だけはそのまま宮殿に残るのはふしぎですね。
遺伝子組み換え作物(GMO)によって地球の自然を収奪し消費者の健康を損ねていくアメリカの大企業の実態と世界各地の反応を描くこのドキュメンタリー映画を、種子を育てる子どもたちを持つアメリカの一家族が完成させたのが、なによりもすばらしい。試写を見た女性ふたりが「もう何を食べたらいいのか分からないわね」と話していた。そんなことはない。映画に描かれたことに意識的になり、さまざまな事実を自覚して日常を生きることを楽しむべきで、危険なのは無知への無自覚だ。
「アーティスト」に納得できなかった人も、これは別物として観たほうがいい。サイレント映画の演出ができていたかどうか、おおいに疑問が残ったあの作品よりも、むしろこちらのほうが映像の力に賭けようとしている。泣き叫ぶ赤ん坊と兵士が対峙する冒頭シーンが(あからさますぎて無粋かもしれないが)テーマのひとつを集約して示す。キャメラのパンとともにフレームインする、燃えさかる集合住宅のイメージが凄まじい。しかしこの映画は作り手たちも、精神的に相当きつかったろうな。
マカロニ・ウエスタンなどの要素を取り入れ、明快な娯楽大作を潔く志向。アクションシーンのカット割りの多さに最初どうなることかと思ったが、見せ場はきっちり見せてくれる。しかしこれは何と言ってもカン・ドンウォンの映画だろう。顔貌も、流れるような殺陣も、華やかな女優の不在を補って余りある鮮烈な美しさ。クライマックスのハ・ジョンウとの対決で、彼はあるハンディを負わされていて、ばかばかしいと言ってしまえばそれまでだけど、このハンディが圧倒的悲哀を醸し出す。
印象派の絵画のような場面から始まる、光と色彩にあふれたこの映画の面白さは、ファンタジーではなくまともなコスチューム・プレイとして撮ろうとしているかのようなところにある。ストーリーがおなじみなぶん、ケネス・ブラナーの演出がよく観察できる。画面の奥行きを意識し、考え抜いて人物を配置している室内シーンは、ウィリアム・ワイラーの映画かと思わされそうな瞬間も。馬が駆け抜ける森も、フェンシングの練習場も、もちろん二人のダンスシーンも、夢のような素晴らしさ。
監督自身の意見や立場はもちろんあるのだが、表面上はあくまで「わからないから順を追って勉強していきます」というスタンスであり、いまだ議論が決着していない遺伝子組み換え食品の安全性についての結論は保留し、「慎重な検討を求めたい」という立場を貫く。誠実な態度だと思う。監督の才気煥発な子どもたちがとても魅力的で、途中ロードムービーのような画面になるのが断然楽しい。教条的なかたくなさに陥らない柔軟性とみずみずしさにあふれ、すごく風とおしのよい映画。
虐殺される両親を目にして声を出せなくなった少年、声を大にして紛争の惨状を訴えても耳を貸してもらえないヒロイン、個人の想いを声にすることを踏み躙られる若い兵士。「アーティスト」ではノスタルジーを求めてキャラクターの声を消したミシェル・アザナヴィシウス監督だが、本作ではトラジディーとして三者三様の声を奪っている。バリバリの5・1chデジタルでありながら、聞かねばならぬ声が聞こえないのだ。メビウスの輪的な構成も印象的で、それも静かに重く引きずる。
舞台は朝鮮王朝末期で、矢が飛び、槍が突かれ、剣と肉切り包丁が火花を散らすが、その精神と構造はまるっきりマカロニ・ウエスタン。クライマックスに同ジャンルを語るうえで欠かせない〝アレ〟が登場することからも、それは間違いない。ただし、そこに義賊となる屠畜人と権力に妄執する妓生の子という白丁同士の恨をめぐるエモーショナルなドラマが渦巻くのだから、しっかりと換骨奪胎している。彼らが決着をつける場が、白丁と縁遠くなさそうな竹林なのもなんだか気になるし燃える。
「スノーホワイト」「赤ずきん」「マレフィセント」など、新たな解釈によるお伽話の映画化が続く昨今。それだけに、馬車にされたカボチャ視点や履いたら外反母趾確実であるガラスの靴視点でなんてことはせず、なるたけストレートに撮り上げているのが、かえって新鮮に感じられる。というわけで、めくるめくキラッキラの世界を思う存分に楽しんだし、それができる内容だ。ケイト・ブランシェットによる継母は、「ブルージャスミン」で彼女が演じたヒロインの先祖と考えて観ると合点がいく。
なんとなく体には良くはないだろうと思うし、できることなら食べたくないし、だけどもなにも知らないに等しい。遺伝子組み換え食品に対する我々の印象と目線を同期させたアプローチは◯。ただし、ロードムービー風味の割には旅している感が乏しい。また、監督とその家族が醸し出す、サードウェーブコーヒー臭というかヒップな生活革命臭が軽く鼻につく。これに関しては、こちらの勝手な先入観だが。とりあえず、これを観てから買い置きしている納豆の表示くらいはチェックした。