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45年前のパリと現在のモントリオール。パリ篇でダウン症の子供を抱えひとり奮闘するヴァネッサ・パラディが、優れた時代美術と魅力的な共演者たちと相まって輝く。モントリオール篇は離婚危機夫妻に、精神分析医やサイキックも登場させ「ソウルメイトか親友か運命の人か」の悩みを告白したり、〝21世紀の薄さ〟を突いてくる。二人の人間が出会って生まれる何かの不思議をふたつの時代が交錯する物語構造を閃き完遂した熱に浮かされる監督の姿がみえる異色作。愛って大変。
釜山国際映画祭に参加しても韓国映画を追いかけるのをやめていた近年の自分を反省。ファン・ジョンミンに釘付けになりながら、「新しき世界」を未見なことを深く恥じた。ファン・ジョンミンに始まりファン・ジョンミンに終わるチンピラの恋物語。新人監督の優れたデビュー作品が次々と登場する韓国映画の胆力にも改めて感服。業界が人を育てて行けることが未来を決める。一方、ひと目惚れに説得力をもたらすには超美人が必要なのか?という課題を貰って解答を探している。
舞踏のようにうねり、絡みあう、白く柔らかい女の体と、四角く硬い男の体。その骨格が、肉が、皮が、場所が雄弁に語るのを聞きながら、俳優の層の厚さに感嘆。 このスタッフ、キャスト、風景、全てが一丸となって迫りくる「愛」を実感するための戦いの記録=「ラブバトル」は、赤の他人には滑稽に見えたり、ただただ息を呑んだり。ドワイヨンの書いた言葉を一切変えずに演じられることで生じる映画の力に襟を正し、仏蘭西映画の豊かな土壌を再確認。観ることもまた戦いだ。
真っ当に暮らすということが、如何に個人のモラルに因って成り立つのかを怖ろしいほど突きつける必見のドキュメンタリー。あっという間に人は基準を変える。血と暴力によって。そして世界は更に容赦ない殺戮の世界に突入していく。全く他人事ではない。報道カメラマンを生業とする監督の初映像作品は、メキシコの〝内戦〟とも言える麻薬カルテル抗争での「国家ものともせず」進撃の末の死体の増加を、あまりに対照的なふたりの男を語り部に追っていく。劇場パンフも力作。
鋭角的というよりは、ハッタリに近いショットの連続で始まるので、この監督の演出には気をつけようと思った。それにしても、年代も場所も違う、二つの物語を強引にカットバックする意図は何かといえば、身近にいた最愛の者がとつぜん、他者を愛してしまったという悲劇が共通項で、彼らを取り巻く人たちの大変さもわかる。そこで観客は愛の歓喜よりも不機嫌な人々の顔に付き合わなければならないのだが、霊媒師やドラッグによる逃避といった話になってくると、さすがに退屈する。
高利貸しの借金取りジョンミンが大学卒の女子銀行員ヘジンにひと目惚れしてしまう。女は一見、粗野な三流チンピラを軽くあしらうわけだが、男女のセリフのやり取りがいい。助手として映画の現場を長い間取り仕切ってきた監督のデビュー作らしく郡山のロケ地の選定もみごとだ。しかし二人の恋が成就してからの転落ぶりが辛い。家族の問題、借金、難病。韓国の「苦しくて暗くなるような映画」が好きだというファンもいるそうだが、カン・ミナの高校生のノーテンキぶりにほっとする。
「映画とはおそらく、何よりも顔の芸術である」とル・クレジオは言ったが、サラ・フォレスティエがふてくされたような顔で男の前に登場してきたとき、ジェームス・ティエレならずとも、こんな女を相手にするのは疲れるなあと思う。口ばかりでなく、やることなすこと気に食わないという感じだ。それが、まるでプロレスみたいに何回戦もの激しいラブバトルを繰り返したあげく、女は優しい顔になり、充足した涙まで流す。観客もまた、いやな女だと思ったことをいつしか忘れている。
「メキシコ麻薬戦争の光と闇」というサブタイトルがついているとはいえ、こんなに射殺死体が転がっているドキュメンタリーも稀である。エイゼンシュテインの「メキシコ万歳」を見て、メキシコに憧れたひとも、このシウダー・フアレスには行きたくないだろう。麻薬王たちを讃え、アメリカでも人気があるというナルコ・コリードの歌手たちもダサイし、麻薬成金が作る墓の豪華さが廃墟感のある街並みに比べて異様だ。主人公の警察官が街を愛していると言うのがよく分からないのだが。
魅力の多い映画である。端正な画面に既成曲をかさね、群像の内面をすべるように活写してゆくジャン=マルク・ヴァレの演出力にはたしかなものがある。けれども、60年代のパリと現代のモントリオールをつなぐこの作品の心臓部分に脚本上の無理がどうにも否めない。瓦解してもおかしくはない終盤の展開をなお食い止めているのは、厚みのある俳優たちの演技だろう。とりわけヴァネッサ・パラディがすばらしく、かつてエイリアンと戦っていたのが嘘のような慈愛の表現に胸を射抜かれた。
堅気の女に恋をしたなら、ならず者の男は死ぬことを運命づけられている。「泥だらけの純情」の浜田光夫や三浦友和、「息もできない」のヤン・イクチュン……。彼らの横顔を想わせるファン・ジョンミンがめちゃ良い。不器用さを着実に愛に両替えてゆく前半部分の演出の冴えに比して、着地点を見定めるあまり「説明」という名の脂肪にまみれた後半は胃もたれがするけれども、この新人監督の演出力は、たとえば食事のシーンのみごとさに表れている。今後も手堅く仕事をしてゆくはずだ。
ジャック・ドワイヨンは「物語」を用意しない。俳優の身体をフレームに配置し、その「時間」をじっと待ちつづけるだけだ。ギリシャ彫刻を想わせる美しい肉体がひたすらにぶつかり交わりあうアリーナは、時間をどこまでも遡行して、あたかもアダムとエヴァの神話的時空に至るかのようだ。女の口からふいにこぼされる「Je t'aime」というあまりにもありふれたことばに、そしてふるえるような感動をおぼえる。楽園を追われた始原の恋人たちも、きっとたがいにそうつぶやいたはずだ、と。
何かを「見ない」ようにしなくては、ひとの生活は成り立たない。世界の各地で、きょうも無残に死んでゆくひとがいる。この映画のあらゆる立場の人物もまた、凄惨な現実の全体像を「見ない」ようにして日々をやり過ごしている。息子を殺された母親の壮絶な怒りは、そうした暗黙の了解への絶叫であり、LAで隣国の麻薬王の武勇伝を歌うシンガーが、訪れた現地でふと見せる横顔は、意識下に圧し殺していたものをふいに「見て」しまった者の複雑な胸中を想わせてあまりある。絶望的だ。